石田三成の関ヶ原の戦いでの失敗は、諸大名を掌握できなかったことにあります。豊臣秀吉の下、政策ではバツグンな有能さを示した三成ではありますが、武士としての人柄にはいくつかの問題点があり、大事な天下分け目の歴史的転換点では大失敗を演じたのでした。

1600年10月21日、関ヶ原の戦いは現在の岐阜県不破郡関ヶ原町で行われました。石田三成を中心とする西軍と徳川家康を大将とする東軍による豊臣家中の騒動というのが表向きの姿です。

しかし、関ヶ原での本戦以外にも、石田方と徳川方に別れた全国規模の戦闘も連動し、最終的には勝者となった徳川家康の天下取りへと繋がっていくのです。東西それぞれの武将たちの三成に対する忌避の思いがこの結果を招いたのでしょう。

東軍の大将である徳川家康は、自分が三成から反感を持たれていることは重々承知だったようです。過去には大阪城において、登城した格上の家康に対して、五奉行筆頭の浅野長政が指摘したにも関わらず、かぶっていた頭巾を取らず長政に激怒されるという一幕もありました。

西軍の大将である毛利輝元は、三成のことを「肝心の人」と称して大いに気を使う人物と捉えていました。関ヶ原の戦いにおいて大将就任の要請をしぶしぶ受けた時は、そのことを一門と重臣たちにはまったく相談をしなかったといい、おそらくそうだんすれば反対されるだろうと考えていたのだと思われるのです。

東軍第二勢力の前田利長の父・利家は、五大老のNo.2として、「家康派」と「三成派」に別れた武将たちの諍いを仲裁する役目を担っていました。その父が亡くなって五大老となった利長には、名だたる武将たちと対立する三成は、きっと疎ましいめんどうな人物だったことでしょう。

西軍第二勢力の上杉景勝が三成側に組した理由は、どちらかと言えば消極的なものと考えられます。景勝の家老・直江兼続が豊臣秀吉の死後に三成と好を通じたことから、景勝はしだいに家康と対立するようになっていったのです。

三成は秀吉への取り成し役という立場であったため、毛利輝元・上杉景勝・島津義弘などの大大名でさえ、常に三成の顔色を窺っていなければなりませんでした。そのようなこともあって、しだいに三成の大名に対する態度は無礼千万なものになっていくのです。

武闘をあまり得意としていなかった節のある三成には、武将の心を掴む技量は劣っていたようです。加藤清正などが朝鮮出兵から帰還したおりのこと、その労をねぎらうつもりで上洛時には茶会を開こうと提案しますが、戦役で甚大な損害を負っていた清正はかえって腹を立ててしまいました。

このような三成の人となりは、関ヶ原の戦いにおいて悪影響を及ぼし、吉川広家・小早川秀秋・脇坂安治・赤座直保・小川祐忠・朽木元綱などの多くの東軍への内通・西軍への叛応者を出したのです。

更に、山川朝信・木下勝俊・松野重元のように西軍の戦線を離れたり、中村一氏・堀尾吉晴・伊東祐兵・生駒親正・蜂須賀家政・日根野弘就のように病気などを理由に不参戦、はたまた中立の立場をとる者と、西軍の戦力は思うほど上がりませんでした。

全ては関ヶ原の戦いという歴史的転換点に臨むまでの、三成の大名・武将たちへの態度が災いしたのです。彼のそれまでの態度(選択)は、まさに人生を考える時の反面教師として見るべきものと言えるでしょう。