アメリカの第33代大統領ハリー・S・トルーマン(1884年5月8日~1972年12月26日)は、人類史上最悪の選択をした人物と言えます。それは、日本への原子爆弾投下の決定で、史上初で最後(であって欲しい)の核兵器を実戦で使用させ、広島と長崎で12万9千から24万6千もの被害者を出したのです。

日本への原子爆弾投下の理由として、アメリカ政府の正式見解では、第二次世界大戦太平洋戦線における日本本土での戦闘を望まず、これを早くに終結させるためだったとしています。しかし、実際には沖縄戦を決行した上に、広島と長崎に落とした原爆の種類が違うことから実験を兼ねていたとも疑われるのです。

1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻によって、第二次世界大戦が始ります。

この年、アメリカに亡命してきたユダヤ人物理学者レオ・シラードたちが、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(1882~1945年)に信書を送ります。これは、ナチス・ドイツが核兵器を持つのではないかと憂慮して、アメリカでの核兵器開発を促すものでした。

1941年7月、ウラン型原爆の基本原理などがまとめられ、爆撃機に搭載できるとわかります。これを知ったルーズベルトは、10月になって原爆開発を決意したのです。

1942年10月、原子爆弾開発・製造のための「マンハッタン計画」が具体的に始動し、日本の悲劇に向かって進みだしました。

1943年4月、原爆開発のためにロスアラモス研究所が創設され、ユダヤ系物理学者ロバート・オッペンハイマー(1904~1967年)が開発責任者となります。

1944年9月18日、ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチル(1874~1965年)がニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原子爆弾投下などで合意を見ます。

1945年1月20日、ルーズベルト大統領第4期目にあたり、トルーマンが副大統領に就任します。2月にはサイパン島から8キロほど離れたテニアン島が原爆投下基地とされました。

4月12日、脳卒中で突然にルーズベルトが亡くなったことによって、トルーマンに大統領の座が回ってきます。4月30日、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(1889~1945年)が自殺し、翌月7日にはドイツの無条件降伏文書が調印されます。

5月18日、大統領職を引き継いだトルーマンは、日本への原爆投下路線を止めることなく、部隊をテニアン島へ移動させます。5月28日になると、初めに原爆開発を進言したシラードが、一転して原爆使用に反対を表明します。

7月16日、人類初の核実験「トリニティ実験」がプルトニウム型原爆で成功し、翌日シラードは大統領へ原爆使用反対の請願書を提出するのでした。

7月21日に実験成功の報を受けたトルーマンは、その残虐性を良く理解はしましたが、使用することの正当性についての思いは変わりませんでした。そして、人類史上最悪の選択、日本への原爆投下を指示したのです。

8月6日午前8時15分、広島にウラン型原子爆弾「リトルボーイ」が投下されます。構造が簡単で実験を必要としなかったこの爆弾による死者は、広島の推定人口35万人に対し、2~4ヶ月以内でその3~5割ほどに達しました。

8月9日午前11時2分、長崎にプルトリウム型原子爆弾「ファットマン」が投下されます。トリニティ実験で成功していたこの爆弾による死者は、長崎の推定人口24万人に対し、およそ3割に達しました。

トルーマン大統領の、人類史上最悪の選択の結果生まれた悲劇です。