日本三大奇襲(或いは夜戦)のひとつとされる「桶狭間の戦い」で、織田信長(1534年6月23日~1582年6月21日)は敵方・今川義元軍の4分の1以下の軍勢で勝利を手に入れます。この時の信長の決断は、その後の天下取りに突き進む歴史的転換点となりました。

宣教師ルイス・フロイスは、信長のことを「戦運が己に背いても心気広闊」と評価しています。つまり、いくら戦況が悪くとも、明るくプラス思考で物事を考えられる人物だったようなのです。

その最も良い結果を生みだした戦が、東海道に勢力を張っていた今川義元を倒した「桶狭間の戦い」です。織田軍3千~5千に対し、今川軍は2万5千から4万5千だったと言われ、10倍近い敵を相手にした敗戦確実な戦を、大逆転で制した成果はまさに歴史的転換点となりました。

1560年6月5日、今川義元は2万5千を超える大軍で、織田信長の領地・尾張(おわり、現在の愛知県)を目指して、駿河(するが、現在の静岡県中部)を出発しました。この頃、対する織田信長方では、清須城で迎え撃つか出撃するかで喧々諤々の議論が交わされていたのです。

12日3時頃になって義元は、松平元康(のちの徳川家康)と家臣・朝比奈泰朝に、織田方の丸根・鷲津の2砦を攻撃させます。敵方攻撃の知らせを受けた信長は、頑として動かなかった前日の対応から一転、翌早朝4時頃に清須城から出立しました。

熱田神宮で戦勝祈願を終えた信長は、丸根砦に佐久間森重、鷲津砦に織田秀敏・飯尾定宗と尚清の親子、善照寺砦に佐久間信盛と信辰の兄弟、丹下砦に水野忠光、中島砦に梶川高秀と一秀の兄弟を配置しました。信長の本隊は10時頃に善照寺砦に入り、2~3千の軍勢を整えたのです。

第一戦は今川方の元康隊による丸根砦の攻撃で、守りの森重隊は5百少しの兵で迎え撃つのです。結果、森重は討ち死にし、鷲津砦でも秀敏・定宗が討ち死にし、尚清は敗走の憂き目に遭いました。

自軍の状勢不利と判断した信長は、善照寺砦に信盛以下5百余の兵を残し、自身は2千の兵を駆って出撃します。敵は東南の桶狭間(おけはざま、現在の名古屋市緑区と豊明市にまたがる地域)方面にいると見て、11時~正午頃に出発したのでした。

正午頃、信長出陣の吉報を得た中島砦の前衛佐々正次と千秋四郎などの兵30余名は、俄然士気が高まり単独での攻撃に打って出ます。しかし、敵方の逆襲は強烈で、善戦むなしくついには二人共々討ち取られてしまいました。

戦況が更に信長軍に不利になっていく中、13時頃には一寸先も見えないほどの激烈な雨が降り出しました。普通であればその状況での戦いは、双方の軍に不利ではあるだけでなく、小さい勢力の軍にはより不利になると考えられます。

しかしここで信長は、小勢力の自軍の不利のことは考えず、敵方の不利を好機と考え、義元本隊への攻撃を決断しました。敵本隊は5~6千ほど、自軍2千で引けをとるほどの軍勢では無いの考えもあったのでしょう。

豪雨の中勢力の差は感じられず乱戦となるものの、最終的には義元は3百の騎馬兵と共に逃げ出します。迫る信長本隊の服部一忠が一番槍を義元に加えるも返り討ちとなり、最後には毛利良勝によって討ち取られてしまいました。

この戦いの結果、駿河で留守を守っていた義元の嫡男で今川家当主の氏真には、お家の勢力を維持することはできず、9年後には大名としての地位を追われ、大名・今川家の滅亡を招いてしまったのです。

信長はというと、この戦いの勝利を機に天下人への道を着実に進み、1573年将軍・足利義昭を追放することによって室町幕府を崩壊させ、天下人としての地位を確立したのでした。