遅れてきた戦国武将・伊達政宗は、摺上原(すりあげはら)の戦いにおいて、武勇だけでなく敵の内紛を逆手に取った戦略で勝利を勝ち取りました。その後の南奥州支配を決定付ける戦いには、政宗の知略も見える舞台裏があったのです。

1584年10月、政宗は父・輝宗の隠居を受けて米沢城(現在の山形県米沢にあった)の伊達家の家督を引き継ぎます。15才で臨んだ初陣から3年、18才の若き当主の誕生でした。

1585年、小浜城(現在の福島県二本松市にあった)の大内定綱と、二本松城の畠山義継が、政宗の正室・愛姫の実家・田村氏の支配を逃れようとします。これに激怒した政宗は、大内・畠山両氏を討つため大内領内の小手森城を攻撃し、周辺諸国への見せしめとして、城内の武将・兵・女子供全てを撫で斬りにしたのです。

この騒動で定綱は没落するものの、義継は和議を申し入れて、輝宗の取り成しでわずかな領地を安堵されます。しかし、この義継を安堵したことが災いし、後日輝宗が最期をむかえることとなってしまうのでした。

父・輝宗の死は、反伊達勢力である佐竹義重らを勢い付け、岩城常隆・石川昭光・二階堂家・蘆名家との連合を生みだします。やがて、反伊達家連合軍は政宗攻略に乗り出したのです。

1586年1月6日、佐竹・蘆名両氏など南奥州諸大名の連合軍3万と、伊達氏の軍7千が戦います。この人取橋(ひととりばし)の戦いは連合軍の勝利に終わりますが、佐竹軍内での裏切りや、佐竹氏の領地・常陸(現在の茨城県)への里見家の侵攻の憂いがあり、佐竹軍の撤退ということで伊達軍のダメージは少なかったのです。

一方、この頃の反伊達である蘆名家には、深刻な問題が渦巻いていました。1575年の第17代当主・盛興の死に始まり、1580年の既に隠居していた第16代当主・盛氏の死、1584年の第18代当主・盛隆の寵臣の襲撃による死、1586年12月31日の3才の第19代当主・亀王丸の死と、継嗣問題があったのです。

次に蘆名家を継ぐのは誰かと蘆名家中は紛糾し、曾祖母に蘆名の血脈を持った二人が候補となります。一人は政宗の弟・小次郎、他方は佐竹義重の次男・義広で、蘆名一門・家臣・周辺領主が二派に別れて対立しました。

結果、蘆名家第20代当主の座を射止めたのは義広で、その当主の下で小次郎派の粛清が行われ、蘆名家中の状況はそれまで以上に悪くなってしまったのです。この状況は、政宗にとっては絶好のチャンスとなりました。

1588年、政宗は蘆名家の黒川城(現在の会津若松市のあった)を攻めるため、その北にある猪苗代城の攻略に着手します。城主は蘆名氏の支流・猪苗代盛胤で、3年前に父・盛国から家督を譲られていました。

実は盛国は蘆名家の継嗣騒動の時、小次郎派の代表的立場にあったため、多少なりとも政宗には味方に引き入れ易いと考えられる人物だったのです。また、盛国には後妻に生ませた亀丸という息子がいて、彼は盛胤を廃してこの亀丸に猪苗代家を継がせたいと考えていました。

政宗は盛国の後妻を通じて盛国の伊達家への内応を取り付け、盛国に猪苗代城の乗っ取りを実行させるのです。そして、盛国が猪苗代城の実権を握った後、政宗は2万の大軍を組み蘆名家攻略に向かいました。

1589年7月17日、ついに摺上原の戦いの火蓋は切って落とされ、盛国の猪苗代軍の勢力を加えた政宗は大勝し、南奥州の支配へと驀進するのです。

この時、政宗は23才。織田信長が生きていれば56才、豊臣秀吉は53才、徳川家康47才であり、天下人になるには少なくともあと20年は早く生まれたかったところなのです。