イギリス帝国(1609~1931年)の栄光を象徴するヴィクトリア女王(1819年5月24日~1901年1月22日)は、その血筋のほとんどがドイツ人に繋がっていて、夫アルバートもドイツ出身、そして彼女は親独派だったのです。女王夫妻はドイツ偏重で、国益を無視しているとも言われましたが、ヴィクトリア朝は繁栄を極めたのです。

イギリスの中核イングランドがウェセックス王国によって927年に統一されてから、イギリス王朝はノルマン→プランタジネット→ランカスターとヨーク→テューダー→ステュアートと続いていきます。

ヴィクトリアは、この次のハノーヴァー朝(1714~1901年)の第6代目として即位し、その治世は特別に「ヴィクトリア朝」とも呼ばれました。ハノーヴァー朝の君主は、代々ドイツのハノーファー王国の君主が兼任していましたが、ハノーファー王国に女王は認められず、ヴィクトリアはイギリスのみの女王となったのです。

1837年6月20日、ヴィクトリアは即位したこの日の日記に、自分が若く未熟ではあるが正しいことをする善意・欲望は誰にも負けないという信念を綴っています。わずか18才のヴィクトリアではあったのですが、即位には母を同席させず、その後の家族に関係のない会見は全て一人でこなすという、かなり芯の強い女性でした。

イギリス国民にとってドイツ系のハノーヴァー王家はあまり好意は持てなかったようで、できればヴィクトリアにはイギリス人の夫を持ってもらい、王家の血統をもう少しイギリス系を濃くしたいという思いが強くありました。しかし、ヴィクトリアはドイツ系の夫を選択してしまいます。

1840年2月10日、ドイツのザクセンの公・ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバートと結婚したヴィクトリアは、夫を天使のようだと言い、ロンドン市内の沿道には数知れないほどの人々が集まっていたと感激しています。

女王としての決意に燃える彼女は、ただ結婚に浮かれていることはせず、新婚旅行をわずか42km先の近場ウィンザーにしています。アルバートが不満の声を漏らすと、ヴィクトリアは女王としての立場を述べて反論したと言います。

イギリスの君主として政務に励むヴィクトリアでしたが、やはりドイツ系の夫妻は、日常的にドイツ語を使っていることもあって、国民の好意を得てはいません。結婚した年の6月、二人の馬車が見物人の女によって狙撃されたのです。

間一髪、アルバートがヴィクトリアを馬車の中に引き倒して守り、二人は難を逃れることができました。この夫の行動は国民から称賛を受け、その後二人の行く先々では、歓迎の万歳が行われるようになったのです。

1870年7月19日、フランスとプロイセン王国(ドイツ北部・ポーランド西部の国)の間にルクセンブルクを巡る普仏戦争が勃発します。ヴィクトリアは首相や外相の消極姿勢に反してこの戦争に介入し、結果的にドイツ帝国の成立をさせてしまいました。

1888年6月15日、ヴィクトリアの孫がヴィルヘルム2世としてドイツ帝国の皇帝に即位します。彼は反自由主義者で、イギリス人である母ヴィクトリア(ヴィクトリア女王娘)を幽閉し、イギリス女王ヴィクトリアとの対立が始りました。

孫に対する女王の怒りが溶けるには、11年の歳月を要しました。ヴィクトリアの性格は直情径行にあり、ほとんど人の意見は聞かない、ある意味ワンマンな女性だったのです。

しかし、その短気な性格はイギリスにとっては良い方向にも効果を上げ、「ヴィクトリア朝」というイギリス帝国の大繁栄の一時代を築いたのでした。