源頼朝(みなもとのよりとも)は、日本で最初に武家政権を開いた人物として有名です。武士による政権ということから、いかにも戦闘には強いと思われがちですが、実は大変な「戦下手」だったのです。

彼が第一線に立った戦いでは敗けを喫し、戦闘の指示に専念してからは勝利を手に入れるようになりました。その戦の指揮能力が幸いしたのか、政権を運営する上で重要となる政治的手腕に生かされ、ついには鎌倉幕府を確立させたのでした。

1159年、13才となった頼朝は父・義朝(よしとも)らと共に平治の乱に参戦します。結果は惨憺たる敗北で、父は恩賞目当ての長田忠致(おさだただむね)の騙し討ちに遭い、長兄・義平(よしひら)は捕まって処刑、次兄・朝長(ともなが)は戦での負傷が元で死亡、頼朝自身は伊豆へ流刑となったのです。

それからの伊豆での長い長い流人生活は、頼朝に多くの人生修行の場となったことでしょう。世の中の情勢が変わったのは、1180年の以仁王(もちひとおう)による平家追討の令旨の発布でした。

石橋山の戦いでは、頼朝軍3百少しの騎馬に対し、平氏方の大庭景親(おおばかげちか)軍3千余騎と対峙します。しかし、以仁王の令旨と援軍を頼みとしていた頼朝の読みは外れ、大庭軍の背後から迫っていた援軍が途中の酒匂川(さかわがわ)が増水して足止めされてしまいました。

戦いの結果は、明かな戦力の差をもって、頼朝軍の敗北となり、安房(あわ)へと落ちて行くしかなかったのです。しかし、しだいに東国武士が集まり始め、鎌倉へと入るまでに再起することができました。

富士川の戦いでは、再起した頼朝軍4万騎、対する平維盛(たいらのこれもり)軍2千騎と、石橋山の時とは完全に逆転しています。維盛軍は水鳥の飛び立つ音に恐れをなして総崩れとなり、頼朝が戦わなくとも戦に勝てるという事例を作りました。

金砂城の戦いでは、富士川から逃げる平氏軍を負おうとした頼朝を、上総広常(かずさひろつね)・千葉常胤(ちばつねたね)・三浦義澄(みうらよしずみ)らが意見し、常陸(ひたち)の佐武氏討伐に向かわせました。頼朝は自身の武威を示すのではなく、自軍の将の意見も良く聞いたのです。

戦いの結果は、広常の策略に始まり、熊谷直実(くまがいなおざね)や平山季重(ひらやますえしげ)などの活躍によって勝利し、敵将・佐竹秀義(さたけひでよし)は奥州(おうしゅう)へと逃げていきました。

この戦いは、その成立する関東をベースとした頼朝の政権を作り上げるための歴史的転換点であり、頼朝が自軍の将の意見を取り入れた選択は正しかったと言えます。このあと頼朝は、鎌倉を関東武士団統率の拠点として、関東の平定と経営に力を傾けていくのです。

1181年は、横田河原の戦いで源氏方の木曽義仲(きそよしなか)が勝利、墨俣川の戦いでは平氏方の平重衡(たいらのしげひら)が勝利と一進一退の状況で推移します。しかし、翌1182年には養和の飢饉が発生し、源平の戦いは一時影を潜めるのでした。

1183年になると、頼朝の政権に加わっていなかった叔父・志田義広(しだよしひろ)が鎌倉を攻めてきます。この野木宮合戦では、頼朝は戦いの指揮を小山朝政に任せ、自身は鶴岡八幡宮で戦いが静まることを祈っていました。

頼朝が源平合戦の最前線には出ない状況の中で、源氏軍は平氏軍を撃滅し続けます。そして、宇治川の戦い・粟津の戦い・一ノ谷の戦い・藤戸の戦い・屋島の戦い・壇ノ浦の戦いで勝利した源氏軍は、ついに平氏を滅亡に追いやるのです。

こうして、頼朝は鎌倉幕府の誕生に向かって行ったのでした。