『モンゴル帝国史』によれば、帝国の創始者ジンギスカン(1162年5月31日~1227年8月25日)は、男としての最大の快楽は敵を撃滅することだと部下に語ったとしています。こんな彼の考え方がその行動にも表われ、ついにはモンゴル帝国の基盤を築くという大きな事績を残すことになるのです。

モンゴル高原北東部の部族キヤト氏の首長のひとりだったイェスゲイの長男として生まれたテムジン(ジンギスカン)は、父の急死によって配下の民から見放され、母ホエルンのもと苦しい子供時代を過ごします。一時期は、対立する部族タイチウト氏に捕らわれたりもしますが、そこの隷属民の助けで逃げ出したりもしていました。

成人したテムジンにも、辛い試練は続きます。宿敵メルキト部族連合の王トクトア・ベキが幕営を襲い、夫人ボルテを奪われてしまうのです。

この時は、父の同盟者だったケレイトのトグリル・カンや、ジャジラト氏の盟友ジャムカなどの助けもあって、ボルテの奪還に成功しています。このような苦難の中で徐々に仲間を増やしていったテムジンは、戦いの先陣を切る「四狗」4人と、敵を震え上がらせる「四駿」という4人の重臣を手にしました。

1190年ころのこと、十三翼の戦いにおいて、テムジンは盟友ジャムカとの戦闘に突入してしまいます。テムジンの勢力はジャムカのそれに劣り、結果は敗北との見方が大半で、テムジン方に寝返った捕虜たちは釜茹での刑になるという残酷な末路でした。

1195年からテムジンは、キヤト氏の統一、メルキト部の遠征、アルタイ山脈方面のナイマンの討伐、タイチウト氏・ジャムカのジャジラト氏・大興安嶺方面のタタルの撃破と快進撃を続けます。面白いように敵を撃滅して行くテムジンは、きっと快楽の絶頂にあったことでしょう。

1201年には、宿敵となていたジャムカを盟主とした東方諸部族同盟の情報を得て、逆襲の末彼らを服属させることに成功しています。そして、翌年にはモンゴル高原中央部の掌握が完成したのでした。

1205年、最後の敵対勢力の西方のナイマンと北方のメルキトを撃破したテムジンは、その盟主でかつての盟友ジャムカを処刑します。そして、南方のオングトも服属することを認め、モンゴル高原全域を支配することとなりました。

1206年2月、テムジンはクリルタイ(モンゴルの最高意志決定機関)を開催し、大ハーンとしてモンゴル帝国を建国したのです。この時イェスゲイ一族の家老の息子であるシャーマン(巫者)が、テムジンにジンギスカンという尊称を奉りました。

敵を打ち破ることに快楽を感じるジンギスカンは、戦いを休むということを知らないかのように、モンゴル高原を超えて征服事業を続けます。1211年には中国北半を支配した女真族の金王朝、1215年ころには中央アジアの西遼とそこに逃げ込んでいたナイマンのクチュルク、1218年にはホラズム・シャー朝の征服事業を開始しました。

モンゴル帝国によって滅ぼされた国は、ジンギスカンによってナイマン王国・西遼・西夏の3国、その後のホラズム・シャー朝にはじまり大真国・金・ルーシ大公国・大理国・アッバース朝・南宋の7国にも上ります。

現在のモンゴルでは、ジンギスカンを建国の英雄とする見方が強いところですが、社会主義時代のモンゴルにおいては侵略者だという考え方もありました。敵の撃滅に快楽を感じるジンギスカンは、征服される国々にとっては不幸をまき散らす悪役であり、世の中を見出す反面教師でもあったのです。