歴史上の人物の選択から自分の人生を考え直す

袁世凱は中国に強いリーダーを望んだ!中華帝国の失敗

袁世凱(えんせいがい、1859年9月16日~1916年6月6日)は、国家の中心となる元首に強権があってこそ乱れた国内を治められるという考えを持ち、中国に強いリーダーを望みました。しかし、その考えの下作り上げた中華帝国は大失敗に終わるのです。

若い頃の袁世凱は清王朝の官僚を目指していましたが、二度に渡って登用試験の科挙(かきょ)に落第し、思い直して軍人への道を進むこととなります。

1881年、管轄地域の軍政と民政を統括する直隷総督(ちょくれいそうとく)の李鴻章(りこうしょう)の下、地方軍の淮軍(わいぐん)に入った袁世凱は、朝鮮に渡り壬午(じんご)事変(1882年7月23日)・甲申(こうしん)政変(1884年12月4日)の鎮圧に活躍します。

甲午(こうご)農民戦争(1894年)・日進戦争(1894年7月25日~1895年11月30日)を経て、1895年10月に袁世凱は陸軍を洋式化する任務を任されます。やがてこの時の軍事力が、袁世凱の力そのものになっていくのです。

軍事力と「ストロング・マン」の異名をとるほどの強権的な政策によって、袁世凱は着々と出世街道を進んで行きます。そして1911年11月16日、政治家としてはトップとなる清王朝の内閣総理大臣(~1912年2月12日)に就任するのです。

1912年2月12日、清王朝が倒れ中華民国が成立、3月10日に袁世凱は臨時政府の国家元首として臨時大総統(~1913年10月10日)に就任します。そして1913年10月10日には、正式な国家元首として、最初の大総統(~1915年12月12日)にまで上り詰めるのでした。

袁世凱が望んだ強いリーダーとしては、この大総統が最良の地位であったと考えられます。ところが彼は、更にその上を目指し、倒した清王朝と同様な皇帝への即位を模索し始めてしまいます。

1915年12月12日、袁世凱は側近の楊度(ようたく)を使って、自らを皇帝の地位に就かせました。これによって国の名称は「中華帝国」となり、結局は清王朝と変わらないものとなってしまったのです。

12月25日、袁世凱の皇帝即位を受けて、南方軍閥(雲南派)の唐継堯(とうけいぎょう)・蔡鍔(さいがく)・李烈鈞(りれつきん)などが雲南省で独立宣言の上、袁世凱討伐のため護国戦争(~1916年7月14日)を起こします。

1916年1月1日、元号を「洪憲(こうけん)」として、いよいよ王朝の様子を呈してきた中華帝国は、学生らの強烈な反発を招きます。北京における学生デモ、地方軍閥の反乱、北洋軍閥諸将の批判、日本政府の非難と、中華帝国の存在は危機的状態に陥っていきました。

3月22日、取り巻く情勢には抗いきれず、袁世凱は護国戦争の最中退位を決意、再び中華民国の大総統に戻り、その後2ヶ月半ほどで亡くなるのでした。国家に強いリーダーを求めて自ら皇帝になるという選択をしてしまった男の、なんとも侘しい最期でした。