「五・一五事件」は時の内閣総理大臣・犬養毅(1855年6月4日~1932年5月15日)が、大日本帝国海軍の青年将校らに暗殺されるという、未曾有の反乱事件でした。その凶行を防げなかった大きな原因は、彼の楽観的な考え方にあったと言えます。

1930年10月2日、「ロンドン海軍軍縮条約」が批准されます。この条約の内容が海軍将校らの不満を募り、翌年の陸軍が起こした満州事変においても、事態を収拾できない政府に対して、更なる不満は蓄積していたのです。

条約批准時の首相は濱口雄幸、全権大使は元首相の若槻禮次郎でしたが、その後若槻内閣から犬養内閣となっていっても、政府に対する海軍将校らの不満は高まっていました。そして、ついには首相官邸・内大臣官邸・立憲政友会(犬養を総裁とする政党)本部・警視庁などを襲撃する反乱へと発展したのです。

1932年5月15日は日曜日で、前日に来日していたイギリスの喜劇俳優チャールズ・チャップリンとの面会がキャンセルとなって、犬養は首相官邸でゆっくりと過ごしていました。夫人・秘書官・護衛らのほとんどが外出し、犬養は医者の往診を受け、鼻を治療していたのです。

鼻以外はというとどこにも異常は認められず、犬養は「あと百年は生きられそう」と言ったといいます。しかし、何事もなく一日が過ぎて行くのかと思われた午後5時27分頃、事件は始まります。

警備が甘くなっていた官邸襲撃の第一組は9名で、表門には中尉の三上卓ら5名、裏門には中尉の山岸宏ら4名、それぞれに車でもって乗りつけてきました。そして、警備の警察官・田中五郎巡査は銃撃戦の末重傷を負い、11日後には一命を落とすことになるのです。

官邸内に侵入した三上は、計画通り問答で手間取って失敗することが無いよう、食堂で見つけた犬養を銃撃しようとしたものの、なぜか銃弾が入っておらず失敗します。そこで犬養は両手を挙げて、「まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう」と三上の説得を繰り返しました。

ここで即座に逃げれば良い所ではありますが、犬養は自分の考え方と日本の将来のあり方などを論じようと、何と襲撃者たちを応接室へと案内するのです。そして、土足の彼らに対し靴ぐらいは脱いだらどうかと言って、三上から自分たちの襲撃の目的を告げられ、「何か言い残すことはないか」と言い返されました。

どうにか応接室に入った襲撃隊第一組の面々を説得しようとする犬養に対して、裏門から侵入した山岸は「撃て、撃て」と叫びます。そこへ後続の襲撃者たち(黒岩勇らが裏門から侵入し、その叫び声を耳にしました。

応接室に入った黒岩は、すかさず首相の腹を目がけて一発射撃、続いて山岸も首相の右こめかみに狙いを定めました。すると、山岸には首相のこめかみに小さな穴が開いて血が流れ出すのが見え、三上が銃弾を発したのを知ります。

襲撃者が官邸を去った後、邸内に残っていた女中のテルが犬養に駆け寄ったところ、彼は瀕死の状態であるにも関わらず襲撃者たちを呼び戻すよう訴えました。そのような状況に陥ったというのに、まだ話せば分かってもらえるものと楽観視していたのです。

夜10時になって犬養は血を吐いてしまいますが、それを心配する人々を励ますほどの元気がありました。しかし、11時26分、ついには衰弱しきった犬養は息をひきとったのです。

世の中の情勢を楽観的に見ていた首相の、あまりにも壮絶な最期でした。