「小さな女性」と称されたストウ夫人の、奴隷制廃止運動のひとつとして出版された「アンクル・トムの小屋」が、奴隷制の是非を争いの論点のひとつとする「南北戦争」を引き起こしました。

一般にストウ夫人として知られるハリエット・エリザベス・ビーチャーは、1811年6月14日、アメリカ合衆国北東部のコネチカット州で生まれました。父は奴隷制反対論者の会衆派教会説教者ライマン、母ロクサーナ、兄弟にはキャサリン、ヘンリー、チャールズ、エドワードがいます。

ハリエットが生まれた1年後の1812年6月18日、合衆国とイギリス・カナダ連合軍がそれぞれに同盟を結んだインディアン諸部族と共に戦う米英戦争が勃発します。この戦争によって工業化を進め保護貿易を望む合衆国北部と、農業中心で黒人奴隷制に支えられ自由貿易を望む合衆国南部の立場が浮き彫りになるのです。

1832年、ビーチャー一家は奴隷制反対運動の中心地のひとつオハイオ州シンシナティに移住します。ここでレーン神学校の初代校長となった父ライマンの下、ハリエットは奴隷制と合衆国南部の奴隷を北部やカナダへ逃亡させる秘密組織「地下鉄道」の知識を得ました。

1836年、ハリエットは先妻と死別した聖職者カルヴィン・ストウと結婚します。そして、夫のボウディン大学の教授職就任に伴い、合衆国最東北部のメイン州へと移住するのです。

シンシナティでの生活からストウ夫人はしだいに奴隷制廃止運動に目覚めていき、聖職者の夫の下でついには黒人奴隷の過酷な半生を描くことを決意するのです。その小説「アンクル・トムの小屋」は、1851~1852年に奴隷制廃止論者の雑誌に発表され、1852年3月20日に本として出版されました。

初老の黒人奴隷トムは物語の始めはシェルビー家にいて、そこの息子ジョージに慕われ幸せに暮らしています。しかし、シェルビー家の衰退によって、悪魔のような農場主レグリーの奴隷となり、過酷な仕打ちに遭います。

物語の途中では、天使のような少女エヴァジェリンとの出会いもありますが、結局はシェルビー家のジョージが買い戻しに行くのが間に合わず、トムは帰らぬ人となってしまうのです。この後ジョージは奴隷制廃止運動を始めることとなり、この小説は合衆国内で大変な反響を呼んだのでした。

そして、1853年には逃亡奴隷の体験談を抜粋した「アンクル・トムの小屋への鍵」、1856年には小説第2作目となる奴隷制反対の物語「ドレッド」を発表、その後も「牧師の求婚」・「オー島の真珠」・「オールドタウンの人々」・「私の妻と私」・「ヤシの葉」など、多くの小説や旅行ガイドなどを出版しています。

1857年3月6日、合衆国最高裁判所で歴史的転換点となる重大な判決が下されます。アフリカ人の子孫は奴隷であろうがなかろうが、合衆国市民とは認められず、従って裁判に訴えることもできないとするものでした。

これは「ドレッド・スコット対サンフォード事件」に対する判決で、カンザス・ネブラスカ法の議論、過激派奴隷制度廃止運動家ジョン・ブラウンらによる武器庫襲撃などと共に、奴隷制に関する問題のひとつで、合衆国南北対立を収拾できなくするほどのものだったのです。

1861年4月12日、奴隷制と貿易での対立軸で「南北戦争」が始り、70~90万人の被害者を生んで、1865年6月22日に最後の砲弾が放たれ、北部(合衆国)が南部(連合国)を下しました。

開戦の前年に合衆国大統領となっていたリンカーンは、1862年にストウ夫人に会った際、「あなたのような小さな方が、この大きな戦争を引き起こしたのですね。」と挨拶をしたと言われています。