歴史上の人物の選択から自分の人生を考え直す

【桜田門外の変】襲撃の密告にも動じずに登城した井伊直弼の決断力

専制政策路線を採る井伊直弼(いいなおすけ、1815年11月29日~1860年3月24日)が暗殺された「桜田門外の変」は、その後の江戸幕府崩壊へと繋がる歴史的転換点です。直弼は強い決断力をもって、襲撃の密告にも動じずに登城し、この災難に遭ったのでした。

直弼は近江(現在の滋賀県北部)彦根藩第15代藩主にして、江戸幕末の混乱期を幕府大老として主導しました。その決断力は非常に強く、幼名の鉄之介(後に鉄三郎)を地でいったような性格だったのです。

運命の「桜田門外の変」は、1860年3月24日の出来事です。「将軍継嗣問題」と「日米修好通商条約の締結」という、幕府及び日本にとって二つの大きな問題に直面し、開国による近代化の断行と、「安政の大獄」といす反対勢力の粛清に対する結果と言えます。

実は変が起こる直前の24日早朝のこと、直弼の居る彦根藩邸に襲撃を知らせる密告書が投じられていました。首謀者は反対勢力の水戸藩浪士との具体的な内容で、充分に信頼すべき情報でしたが、直弼はまったく動ずる気配が無かったのです。

3月10日、変の計画首謀者の金子孫二郎・金子勇次郎・稲田重蔵・佐藤鉄三郎・飯村誠介らが水戸を出立、17日には江戸に到着します。襲撃現場の総指揮を執った関鉄之介はこれより早く11日には江戸入り、他にもぞくぞくと一味は江戸に集結、最終的には水戸浪士17名・薩摩藩士1名が暗殺の機会を待ったのでした。

3月22日に孫二郎が日本橋西河岸の山﨑屋に主要7名を招集し、24日の襲撃実行を取り決めます。そして、23日には品川宿の相模屋に最初で最後の一味集合が行われ、決別の酒宴を開いたのでした。

3月24日早朝、直弼は水戸浪士らの襲撃の密告書を藩邸で受け取ります。しかし、反対勢力の脅威を意に介しない彼は、いつどおりの供揃え60余名で登城することを選択し、いつもどおり午前9時頃に藩邸を出ました。

直弼が藩邸を出た直後、藩邸で彼を見送った藩の側役・宇津木左近は、直弼の机上に開封された密告書を見つけます。襲撃のことを知った宇津木はすぐに護衛の増派を準備しますが、時すでに遅かったのでした。

この日の天気は雪、直弼一行が桜田門外の杵築藩邸の門前にさしかかったおり、短銃による最初の襲撃が駕籠の中の直弼に深手を負わせます。加田九郎太包種ら4名が防御するも闘死、岩崎徳之進重光ら4名は負傷し帰邸後死亡、無傷・軽傷で帰邸した7名の彦根藩士は入獄後斬首となりました。

直弼自身は銃で傷を負った後、幾重にも刺客による刀の突きを受けて、虫の息となったところを駕籠の外に引き出されます。そして、襲撃者唯一の薩摩藩士・有村次左衛門の手によって斬首されたのでした。

この変による歴史への影響には、非常に多大なものがありました。幕府の権威は地に落ち、尊皇攘夷運動が勢いを増し、わずか8年足らずで「大政奉還」による幕府の終焉を迎えるのです。

「安政の大獄」における過酷な粛清などから、「井伊の赤鬼」とも呼ばれた直弼の、誰の意見にも曲げられない強情とも言える決断力が招いた、歴史的な事件でした。