歴史上の人物の選択から自分の人生を考え直す

【天保の改革】水野忠邦の出世欲に基づいた強硬な政策の失敗

「天保(てんぽう、1830~1843年)の改革」は、江戸時代の三大改革の内の最後のもので、幕府の財政再建のために行われました。しかし、これを行なった老中(ろうじゅう、臨時を除けば将軍に次ぐ役職)・水野忠邦(みずのただくに、1794年7月19日~1851年3月12日)の出世欲に基づいた強硬な政策は、失敗を招きました。

唐津藩(からつはん、現在の佐賀県唐津市に居城)の第3代藩主・忠光(ただみつ、1771~1814年)の次男として生まれた忠邦は、兄の早世によって1812年に家督を継ぐこととなります。

水野家は主君・徳川家と同じ清和源氏の流れで、忠邦の家系は2代目将軍・徳川秀忠の側近として仕えた忠元(ただもと、1576~1620年)に始まります。忠元は大阪の陣にも参加し、徳川幕府を初期の頃から支える家柄だったのです。

忠邦の父・忠光は、ほとんど成果は上がらなかったものの、自ら藩政の改革にあたった人でした。それが何の因果か忠邦にはそれよりも大きな幕政改革という仕事が回って来たのです。

忠邦には、幕府の中枢でのし上がっていきたいという非常に強い欲望がありました。そのためには手段を選ばず、賄賂を使うことは至極当然のことだったのです。

1816年、奏者番(そうじゃばん、城中の武家礼式の管理役)になった忠邦でしたが、そんな役職では満足できません。そして、家臣が反対するのも聞かず、昇進を阻んでいると考えた唐津藩25万3千石を手放して、浜松藩15万3千石への国替えを願い出たのでした。

国替えは成功しましたが、この時にも唐津藩の一部を幕府に差し出すという賄賂工作をした疑いが強く、その地域の人々には長く恨みを抱かれることとなりました。しかし、忠邦の思惑どおり幕府での昇進は寺社奉行へと確実に進み、不満を抱いていた家臣たちも鎮静化していったのです。

幕府内でその名を轟かせた忠邦の昇進の勢いは留まる所を知らず、1825年に大阪城代、翌年には京都所司代、そのまた2年後には西の丸老中となって、次期将軍候補・家慶の補佐役となったのでした。ここにきて、忠邦は出世の勢いは、幕府中枢の将軍に肉迫するまでになったのです。

1834年、幕府老中で沼津藩第9代藩主・水野忠成が亡くなると、忠邦は本丸老中に昇格します。そして1837年、将軍・家斉(いえなり)が家慶に職を譲り、忠邦の手腕が発揮される時期が到来したかに見えたのです。

しかし、大御所となった家斉の側近、水野忠篤・林忠英・美濃部茂育らの実権掌握のため、忠邦に活躍の場は与えられませんでした。忠邦には財政危機に陥っている幕政をどうにかしたいという思いがあったのですが、それはとても難しいことだったのです。

そして1839年、本丸老中になってから5年の歳月をかけて、忠邦はその最高位・老中首座にまで上り詰めます。更に1841年、家斉が亡くなると同時に、忠邦は家斉の側近を首にし、遠山景元(とおやまかげもと、遠山の金さんのモデル)を始めとした新たな人員を登用して、「天保の改革」へと取組んでいきました。

忠邦は、農村復興を目指す人返し令、奢侈禁止、風俗粛正、低物価政策としての株仲間の解散と、多くの改革政策を実施しました。しかし、幕府財政を補填しようと質の低い貨幣を作り過ぎが原因で物価は高騰、庶民の生活が苦しくなっていったのです。

こんな状況の中、あの「金さん」は政策緩和を図って人気者となり、腹心の部下が対立する老中・土井利位(どいとしつら)へと寝返ってしまいます。そうして、出世欲でのし上がってきた忠邦の改革は、1843年に彼の老中罷免をもって失敗に終わったのでした。