卑弥呼(ひみこ)は内戦で乱れている倭国(わこく、日本)を立て直すため、女王への擁立の要請を受け入れることを決断しました。彼女の統治する邪馬台国は、この決断によって倭国全体の統一を成し遂げることができたのでした。

卑弥呼のことが書かれた特に有名な歴史書は『三国志』で、この通称『魏志倭人伝』と呼ばれる部分にかなり長めに記録されています。この書は、280年から297年の間に陳寿(ちんじゅ、233年~297年)という、蜀漢(しょくかん、221~263年)と西晋(せいしん、265~316年)の二つの中国王朝に仕えた官僚によって書かれました。

また、范曄(はんよう、398年~445年)が編んだ、歴史書『後漢書』の中の『東夷伝』という部分にも卑弥呼のことが書かれています。この書では、後漢の二人の皇帝、桓帝(かんてい)と霊帝(れいてい)の治世(146~189年)に、倭国大乱という日本国内での争乱があったというのです。

卑弥呼の生まれた時期は不明で、亡くなったのは247年から248年の間頃と考えられています。倭国大乱に際して初めて卑弥呼が歴史上に姿を現わし、乱れた倭国の統一にその力を発揮したのでした。

『後漢書』に先立って書かれた前漢(ぜんかん)時代のことが書かれた歴史書『漢書』には、倭国には百余りもの国(政治集団)があったとあり、倭国大乱の時にはこれらの小国が離合集散しながら争ったのでしょう。卑弥呼がいたのは、それら小国のうちの、邪馬台国(やまたいこく)というところでした。

争乱が起こるまで倭国では70~80年もの間、平和裏に男王が統一支配をしていました。しかし、小国同士の諍いが表面化し全国にまたがる争乱に発展すると、倭国全体を支配できる者が不在となってしまいます。

小国各国が倭国統一を目指して争う中、邪馬台国でも倭国統一事業に乗り出します。そして、邪馬台国において鬼道(きどう)という人心掌握術を得意としていた女性・卑弥呼の擁立を画策するのです。

邪馬台国内の実力者であったと思われる卑弥呼の弟は、自分が倭国の実権を握るため、姉に対して倭国王への就任を強く要請したことでしょう。大乱時にはすでに高齢であり、夫もいなかった卑弥呼には、頼れるものは身内では最も近しい弟の願いには、ずいぶんと悩んだことと考えられます。

結局、卑弥呼自身はこれまでどおり鬼道に専念し、政権の実務は弟が行うという形で、倭国女王という大任を受け入れる決断をします。こうして、邪馬台国は倭国統一に向けて、他の小国との同盟と戦いへと向かったのでした。

238年12月、倭国統一を目指す邪馬台国の卑弥呼は、当時の中国華北を支配した魏(ぎ、220~265年)から、「親魏倭王」として倭国の王であることが認められました。この時までに、ほとんどの小国が邪馬台国を中心とした連合国家を形成していたのでしょう。

邪馬台国の南には、長らく敵対していた狗奴国(くなこく)がありました。この国には、卑弥弓呼(ひみここ)という男王がいましたが、247年にも邪馬台国との紛争を起こしています。

この紛争の最中、卑弥呼は亡くなってしまい、後を継いだ男王の元では再び千人以上もの犠牲者が出る争乱が起こりました。そこで、卑弥呼の一族の中から台与(とよ)という少女が女王として擁立され、ようやく争乱は収まったといいます。

連合国家の女王となるかどうかの選択の時、自分や一族のこと思ったか人民のことを思ったかは定かではありませんが、卑弥呼の決断は確実に倭国を平和に導く結果となったのでした。