サン・バルテルミの虐殺(1572年8月24日)は、キリスト教の宗派対立が生んだ凄惨な大量虐殺事件です。その発端は、フランス王シャルル9世(在位:1561~1574年)の母后カトリーヌ・ド・メディシス(1519年4月13日~1589年1月5日)の提案が招いた悲劇でした。

ドイツで始まったキリスト教の改革運動(宗教改革)は、他国へも影響を与えて広がりを見せていました。それはフランス王国でも例外ではなく、カトリックとプロテスタント(カトリック側の呼び名はユグノー)の宗派対立は、ユグノー戦争(1562~1598年)にまで発展していたのです。

1562年3月1日、フランス北東部のヴァシーというコミューン(地方自治体)で、カトリック側のリーダー的存在のギーズ公フランソワ・ド・ロレーヌ(1519~1563年)の兵士たちが、そこの市民とユグノーたちを殺害する事件を引き起こします。このヴァシーの虐殺が発端となって、ユグノー戦争は始まったのです。

1563年、フランソワが暗殺されると、ギーズ公はその長男アンリ1世に引き継がれます。彼は、父を暗殺したユグノーのコリニー提督に恨みを抱き、ずっと復讐の機会を待っていたのです。

カトリーヌは息子シャルル9世が10才そこそこで即位してから摂政となっていて、キリスト教の宗派対立の融和政策にあたっていました。その中で提案されたのが、ユグノー指導者のナバラ(イベリア半島北東部の王国)王アンリと娘マルグリット(シャルル9世の妹)の結婚です。

実はこのマルグリットは、あのカトリックのリーダー格ギーズ公アンリ1世と密かに恋愛していたのですが、母カトリーヌの怒りを買っていたのです。それが、対立するユグノーの指導者の下に嫁がされるという、悲しい憂き目に遭わされることになったのでした。

1572年8月17日、ナバラ王アンリとフランス王女マルグリットの結婚式が、パリのノートルダム聖堂で行われました。結婚式には、ユグノー指導者のコリニー提督を始め、多くのユグノーの貴族たちが参列したのです。

8月22日、コリニー提督がルーブル宮から宿泊先の宿に帰る時のこと、銃撃が彼を襲います。ユグノーたちがシャルル9世に事の真相を問いただしますが、翌日になって、王はユグノーの殺害を命じ、24日のサン・バルテルミの祝日になって、再びコリニー提督は襲われ、暗殺されてしまったのです。

暗殺者は、ずっと復讐の機会を狙っていたギーズ公アンリ1世の兵でした。この暗殺がきっかけとなって民衆の暴動が始り、ギーズ公の兵とカトリックの市民たちは、次々とユグノーの貴族と市民たちを虐殺していったのです。

サン・バルテルミの虐殺と呼ばれる暴動は、パリ市内だけに留まらず、地方へも広がっていき、最終的には1万を超える犠牲者が出ました。まさに、宗教対立政策として政略結婚を画策した、摂政カトリーヌの大失敗の選択の結果でした。

2年後シャルル9世が亡くなり、フランス王はその弟のアンリ3世(在位:1574~1589年)となります。これによって、ユグノー戦争はフランス王アンリ3世治世の下、カトリック勢のギーズ公アンリ1世と、ユグノー勢のナバラ王アンリが争う、混沌とした「三アンリの戦い」へと移っていきました。