朱元璋(しゅげんしょう、1328年10月21日~1398年6月24日)は、聖賢・豪傑・盗賊など様々な姿を見せながら、その能力を最大限に駆使して、モンゴル人による中国の征服王朝・元(げん、1271~1368年)を駆逐し、漢民族による統一王朝・明(みん、1368~1644年)を創始しました。

1328年、元の威信も衰えを見せている頃、華東東北部の貧しい農民・朱家に末っ子が生まれました。名を重八(じゅうはち)といい、その母が夢の中で仙人から赤い玉を貰って妊娠したと言い伝えられています。

世の中は政治が乱れているうえに、飢饉・凶作の連続によって、まさに断末魔の声を上げている時代です。重八の家族も飢えによって多くが亡くなり、彼は托鉢僧となって放浪するという生き方を選択し、試練の生活の中で興宗(こうそう)と名を変えたりしました。

1351年、白蓮教(びゃくれんきょう)の信者たちが元王朝に対して反乱を起こし、興宗が身を寄せていた寺が焼失してしまいます。乱を起こした白蓮教徒たちが目印でしていた紅い布から、紅巾の乱と呼ばれたこの戦いは、占いによって興宗の参加を促しました。

興宗は名を元璋とし、紅巾軍の武将・郭子興(かくしこう、1302~1355年)の部下となって手柄を上げ、その養女の婿に迎えられます。ちなみに、この養女が、元璋が明の初代皇帝となった時の馬皇后(ばこうごう)なのです。

元璋は貧しい農民の出身という境遇を利用し、敵方・元軍に徴兵された農民を味方にし、紅巾軍の拡大を行ないました。そして、同郷で農民出身の徐達(じょたつ、1332~1385年)や、盗賊の経験を持つ常遇春(じょうぐうしゅん、1330~1369年)、後に軍師を務める李善長(りぜんちょう、1314~1390年)を得るのです。

1355年、義父の子興が亡くなり、その軍は息子・天叙(てんじょ)と義理の弟・天祐(てんゆう)、それに元璋の3人に分割して譲られます。しかし、天叙と天祐が戦死したことにより、子興の軍は全て元璋のものとなるのです。

1356年、元璋は現在の南京を占領して応天府とし、長江下流においては最も大きな勢力のひとつとなります。この彼の勢いは各地に広まり、劉基(りゅうき、1311~1375年)や宋濂(そうれん、1310~1381年)といった名だたる人々が彼の下に集まって来たのでした。

1360年、長江上流に大漢国を立てていた陳友諒(ちんゆうりょう)が、応天府の目前まで迫ってきましたが、元璋はこれを撃退します。そして、1363年になって元璋軍と大漢軍の激突が再開され、友諒の戦士によって大漢国は滅ぼされました。

1364年元璋は呉王を名乗り、同じく呉王と称していた張士誠(ちょうしせい、1321~1367年)と激突することとなります。士誠の領土を着実に攻略して行った元璋は、1366年には白蓮教と決別、ついに1367年に士誠を討ち、淮南・江南(長江の北と南)を統一しました。

1368年、元璋は応天府で皇帝となり、国号を「大明」とし、明の建国を成し遂げます。これによって元は北へ逃げ出すこととなり、中国での統一王朝としての地位は失うのですが、更に追い打ちをかけられ、1387年までに明軍の北伐によってほとんど壊滅状態となったのでした。