聖徳太子(574年2月7日~622年4月8日)は、官僚や貴族たちに道徳的な行動を求めて、神道・儒教・仏教の思想に基づいた行政法「十七条憲法」を制定しました。これは、国際的に緊張する中で中央集権を確立するためには、どうしても避けては通れない選択の道だったのです。

「聖徳太子」とは、死後100年以上も経ってから呼ばれることになる尊称で、本当の名前は厩戸(うまやど)皇子といいます。「皇子」と称号が表わすとおり、彼の父は用明(ようめい)天皇で、れっきとした天皇の跡継ぎである皇太子という立場にあったのです。

厩戸は、日本最初の女性天皇・推古(すいこ)の下、時の権力者・蘇我馬子(そがのうまこ)と共に政権を担当しました。また、推古天皇の即位に伴って、厩戸は日本初の摂政(せっしょう)に就任し、天皇の政務を代行したのです。

この頃、中国大陸では隋(ずい)が南北を再統一して、まだ4年ほどしか経っていませんでした。しかし、それ以前の王朝による政権運営と、隋による内政改革には多くの優れた点があり、日本の政権にはとてもためになるものだったのです。

593年、厩戸建立の七大寺のひとつ、四天王寺の築造が開始されます。これは、仏教に関連して蘇我氏と対立していた物部氏との戦いの時に、その勝利にあたって建立すると誓ったものでした。

594年、推古天皇の名のもとに、仏教興隆の詔を発します。その翌年には、高句麗(こうくり、朝鮮半島北部の国)の僧侶・慧慈(えじ)が、隋についての情報を伝え、厩戸の興味をひくのでした。

そして600年、隋から技術・制度を学ぶため、初めての遣隋使が派遣されました。その成果もあって、603年には冠位十二階という、有能な人材を確保できる家柄に左右されない官僚の位階制度を作り上げます。

604年、厩戸は満を持して、官僚や貴族らが道徳的に行動する様、仏教思想を盛り込んだ「十七条憲法」を制定します。この行政法には仏教の他、中国及び東アジアの国々で大きな力を持つ儒教(じゅきょう)と、日本古来の宗教で天皇家とも密接に係わる神道(しんとう)の思想も含まれているのです。

その後も遣隋使は、607年に小野妹子(おののいもこ)ら、608年には2回、610年・614年に各1回と派遣を続けたのでした。このようにして、厩戸は隋から多くのことを学び続け、推古朝の政権を強化していったのです。

十七条憲法の第1条は、和が最も大切で争わないよう戒めています。そして第2条は仏・法理・僧侶を敬うよう要請し、第3条では天皇の命令には恭しくし、第4条では礼節を基本とし、第5条では私欲を捨て訴訟は厳正にし、第6条では勧善懲悪を良しとしているのです。

他に、任務のまじめな遂行と権限の乱用禁止、早朝から夕方遅くまで働くこと、誠実さが人道の根本、功績・過失を明確にして賞罰を行なうこと、天皇が唯一の君主であること、職務を理解すること、嫉妬しないこと、公務に専念すること、民の使役は時期を吟味すること、物事を一人で判断しないことなどが定められています。

十七条憲法の内容は、誰かを裁く法律というよりも、現代の国家公務員の倫理規定に近く、何百年も官僚組織の在り方を先取りしているものです。後世になって、厩戸は信仰の対象となり、聖徳太子と尊称されるようになったのでした。