清和源氏の血を引く足利尊氏(あしかがたかうじ、1305年8月18日~1358年6月7日)には、後世の評価で対立するふたつの面があります。平氏政権とも言える北条得宗に牛耳られた鎌倉幕府を滅亡させた英雄の面と、正当な天皇を追い出した逆賊という面です。

彼が逆賊になってまで開いた室町幕府が生まれるまでの、いくつかの選択がありました。清和源氏の祖・源経基(みなもとのつねもと、961年没)から、室町幕府誕生までの歴史の流れを見ていきましょう。

経基は、武門最高栄誉職・鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)となり、その嫡男・満仲(みつなか、912~997年)もまた鎮守府将軍となり、多田源氏の祖とも言われています。そして、満仲の三男で河内源氏の祖・頼信(よりのぶ、968~1048年)と、その嫡男・頼義(よりよし、988~1075年)も鎮守府将軍となるのです。

頼義の長男・義家(よしいえ、1039~1106年)もまた鎮守府将軍となり、軍事活動において朝廷の事後承認を受けるなど、天皇をないがしろにする傾向が少し見られます。その子孫には、初の武家政権・鎌倉幕府を興した頼朝(よりとも)も出現しました。

義家の子・義国(よしくに、1091~1155年)は、乱暴狼藉をはたらくなどして、しだいに主流から外れていきます。その子・義康(よしやす、1127~1157年)が、足利氏の祖となるのです。

義康の子・義兼(よしかね、1154~1199年)は、早いうちから頼朝軍につき従い、鎌倉幕府の御家人となりました。そして、その三男・義氏(よしうじ、1189~1255年)もまた鎌倉幕府に仕え、その嫡男・泰氏(やすうじ、1216~1270年)は鎌倉将軍と北条得宗というふたつの主君を持ったのです。

泰氏の三男・頼氏(よりうじ、1240~1262年)、その子・家時(いえとき、1260~1284年)、その嫡男・貞氏(さだうじ、1273~1331年)と足利家は鎌倉将軍と北条得宗に仕えていきます。

貞氏の長男・高義(たかよし、1297~1317年)は、母に北条得宗・顕時(あきとき)の娘を持っていましたが、若くして亡くなってしまいます。そのため、上杉清子(うえすぎきよこ)を母に持つ、次男・尊氏と三男・直義(ただよし、1306~1352年)が表舞台に出てくることとなるのでした。

尊氏は最初、北条得宗・高時(たかとき、1304~1333年)から一字もらい、高氏と名乗っていました。つまり、本来は北条得宗に仕え、鎌倉幕府を支える立場にあったということなのです。

1333年に後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288~1339年)が鎌倉幕府追討の兵をあげると、幕府軍を率いていた高氏は幕府への反乱を宣言して、ついには滅亡させてしまうのです。こうして高氏は天皇を助けた英雄として、その名・尊治(たかはる)から一字貰い受け、尊氏となったのでした。

しかし、後醍醐天皇の建武の新政は独裁的で、尊氏ら武人にはほとんどメリットのあるものではなかったのです。そして、鎌倉にいた尊氏の弟・直義が鎌倉幕府残党の起こした中先代の乱が、尊氏に再び寝返りのきっかけを与えたのです。

直義を助けるため鎌倉に向かった尊氏は乱鎮圧後もそこに止まることとし、新たな武家政権の創設を画策しました。そして、京都の建武政権を倒し、新たに光明天皇(こうみょうてんのう、1322~1380年)を即位させるのです。

時の天皇にたてつき、別の天皇を擁立するという行為は、尊氏に逆賊という汚名を付けました。しかし、1336年に新しい武家政権・室町幕府ができて、京都は華やかな時代へと向かって行ったのです。