フランス国王ルイ16世の妃マリー・アントワネットには、自分の結婚に自らの人生の選択として、自由はまったくありませんでした。フランス革命の最中、夫に代わって反革命の立場を取ったことが、彼女を生涯の終わりへと導いてしまったのです。

1755年11月2日、ウィーンにおいて神聖ローマ皇帝フランツ1世(在位:1745年~1765年)に11人目の女の子が生まれました。母親はオーストリア女大公マリア・テレジア(1740年~1780年)で、ハプスブルク君主国の実質的な”女帝”です。

女の子の正式な名前は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンといいます。この女の子に最初の大きな人生の歴史的転換点が訪れたのは、彼女が14才の時でした。

その歴史的転換点までの、彼女の兄弟たちの人生は次のような感じです。

第1子長女マリア・エリーザベトは、病気でわずか3才で亡くなります。そして、第3子三女マリア・カロリーネは、わずか2才で亡くなり、同じ名前の第10子七女も生まれてすぐに亡くなってしまいます。

第2子次女マリア・アンナは、生涯独身を貫き母の死後は修道院への奉仕を行い、53才で亡くなります。

第4子長男ヨーゼフ・ベネディクトは、24才で神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世となり、急進的な改革を行なって「民衆王」・「皇帝革命家」・「人民皇帝」などと呼ばれました。そして、第9子三男ペーター・レオポルトは、兄ヨーゼフ2世の後を継いで神聖ローマ皇帝となりました。

第5子四女マリア・クリスティーナは、母から最も可愛がられ兄弟の中で唯一恋愛結婚を認められますが、兄弟姉妹とはあまりうまくいっていませんでした。最愛の夫とは、一緒にテシェン公国を統治しました。

第6子五女のマリア・エリザベートは、姉妹の中では最も綺麗で母のお気に入りで、フランス王ルイ15世との政略結婚が決まりかけいましたが、天然痘のため醜くなり、その縁談話も母の愛情も消えてなくなりました。

第7子次男カール・ヨーゼフは、明るい性格と魅力的容姿に加え知性も有り、両親から溺愛されていましたが、天然痘に罹り15才で亡くなります。続く、第8子六女マリア・アマーリアは、望む結婚を認められず、嫁がされた先では荒れた生活をしたのでした。

第11子八女ヨハンナ・ガブリエーラと第12子九女マリア・ヨーゼファもまた、天然痘に罹りそれぞれ12才と16才で亡くなりました。

第13子十女の三人目のマリア・カロリーネは、ルイ16世との結婚が考えられていました。しかし、ナポリ王フェルディナンド4世と婚約していた九女が亡くなった為、代わりにナポリへと嫁がされます。

第14子四男フェルディナントは、オーストリア=エステ大公を務めました。

第15子十一女がマリア・アントーニアで、十女のナポリ王との結婚によって、ルイ16世との結婚という歴史的転換点が巡って来たのです。14才の彼女には、母の政略に反対できる選択権はまったくありませんでした。

選択の余地のない状態で政略結婚させられ、フランス名マリー・アントワネットとなった十一女でしたが、夫との関係は非常に良いものでした。1774年夫が即位し王妃となると、彼女は宮廷のしきたりの改革に着手し、反感を買うこととなります。

1789年にフランス革命が勃発すると、マリーはその対応ができない夫に代わり、反革命の立場を明確にします。それは、オーストリアの実家にフランスの情報を流出するというものであったため、国民からは裏切り行為と見られてしまうのでした。

結果、1793年10月16日、マリーはギロチンの刃の露と消えたのです。