断固として「聖書に書かれていないことは認めない!」という信念を貫いたマルティン・ルター(1483年11月10日~1546年2月18日)の転機は、ロースクールに入学した年にやってきました。雷に恐れをなした彼は修道士になるという聖アンナへの誓い、そのことがプロテスタント教会誕生へと繋がる宗教改革へと向かっていくのです。

マルティンの父は、彼がエリート・コースを進むことを望んでいました。その父の願いどおり、法律家を目指して大学に進み、哲学を学び優秀な成績を収めています。

1505年のある日のこと、マルティンは草原で激しい雷雨に遭遇します。雷に撃たれて死んでしまうのではないかと恐れをなした彼は、思わず聖母マリアの母である聖アンナに、修道士になることと引き換えに助けを求めます。

どうにか落雷の被害をまぬかれたマルティンは、聖アンナへの誓いを実行に移すべく、父や母の反対を押し切って、聖アウグスチノ修道会へと入りました。彼が真に神を信じ敬うこととなった、彼にとってもカトリック教会にとっても歴史的転換点となった時です。

元々大学でも優秀であったマルティンは、修道会でもその才能を開花し、たった1年で司祭の叙階をうけることとなります。しかし、彼自身はいくら神に祈っても平安な気持ちになれない己を自覚し、修道士としての道を諦め、神学を極めることに方向転換するのでした。

彼は、いくら修道士のように禁欲的な生活をしようと、山ほどの善い行いをしても、決して自分は正しいのだということはできないと感じていたのです。そして辿り着いた結論が、神の恵みによって人は正しくいることができるというもので、やっと心の平安を得ることができたのです。

1515年、キリスト教の最高位でカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇、レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂を建築するため、贖宥状(しょくゆうじょう)という罪の償いを軽減する証明書を発売します。一般には罪を免除するという意味で、免罪符とも呼ばれています。

免罪符の販売は、ヨーロッパ内では特にマルティンの住むドイツが盛んで、マルティンにとっては絶対に見過ごすことのできないものでした。このような状況を打開するため、マルティンは1517年からカトリック教会のやり方を見直そうという宗教改革運動が始めたのです。

マルティンの発表した数々のカトリック教会に対する文書は、マルティンのカトリック教会からの破門という事態にまで発展します。レオ10世は、マルティンの唱える「41ヶ条のテーゼ」の撤回を求めたのです。

しかしマルティンは、レオ10世の立場を示す「回勅」と教会文書を市民の面前で焼き捨てるという行動に出ます。結局1521年、マルティンを破門にする回勅が出され、マルティンをカトリック教会の訣別は決定的なものとなりました。

1524年には、マルティンが1517年に発表した『95ヶ条の論題』というカトリック教会の免償理解を疑う文章などに触発され、ドイツ南部と中部において「農民戦争」が勃発します。結果は反乱の鎮圧に終わり、首謀者トマス・ミュンツァーは拷問のうえ処刑、10万人もの農民が亡くなりました。

1529年、マルティンの主張に賛同するルター派が、神聖ローマ帝国皇帝カール5世へ宗教改革を求める「抗議書」を送り、「抗議者(プロテスタント)」と呼ばれるようになります。キリスト教にカトリックし対して、プロテスタントが生まれた瞬間です。

1555年、30年に及ぶ内乱の末、プロテスタントの地位が保証されることとなり、既に亡くなっていたマルティンの信念が成就したのでした。