オリバー・クロムウェル(1599年4月25日~1658年9月3日)は、イングランド王・チャールズ1世(在位:1625年3月27日~1649年1月30日)をスコットランドに追いやって、王に替わってイングランドを牛耳ったのです。王の権威に匹敵する、護国卿の独裁の始まりでした。

オリバーの実家はピューリタン(キリスト教プロテスタントの大グループ)で、下級の地主でした。

1639年、スコットランド王でもあるチャールズ1世がイングランド国教会形式の祈祷書を、スコットランドに強制したことをきっかけに、清教徒(ピューリタン)革命の端緒となる主教戦争が勃発します。戦いは翌年にも行われ、スコットランド側が勝利を勝ち取り、チャールズ1世は長期議会の開催を余儀なくされたのでした。

オリバーはこの戦いの最中に開催された短期議会と、勝利の結果行われることになった長期議会の議員に選出されます。そして、清教徒革命が巻き起こる時期は、議会を支持する「議会派」に属し、王制を支持する王党派と対立していくのでした。

1642年10月23日のエッジヒルの戦いでは、上流人士の騎士による国王軍に対し、酒場の給仕や職人で編成されたイングランド議会軍の劣勢は明らかで、オリバーに信者による軍の編成を提案させるに至りました。戦い自体は、国王軍の戦略の失敗もあって、どうにか引き分けに終わります。

1643年6月30日のアドウォルトン・ムーアの戦いでは、有利に戦いを進めていた議会軍に対し、国王軍の最後の突撃が巧を奏し、国王軍大逆転の勝利に終わるのです。ここでも民兵編成の議会軍の弱さがはっきりし、その早急な改革が急がれることとなったのです。

1643年10月11日のウィンスビーの戦いでは、イングランド東部のリンカンシャーから王党派を排除するのに成功するものの、年内中は国王軍有利で戦況は展開していました。

1644年7月2日のマーストン・ムーアの戦いでは、主教戦争を引き起こしたスコットランド盟約派が議会軍と連合し、国王軍を撃退してイングランド北部での優位を勝ち取ります。この戦いでのオリバーの活躍には目覚ましいものがあり、その功績をほとんど一人占めしたような感じでした。

1645年6月14日のネイズビーの戦いでは、ついに議会軍の決定的勝利となります。内戦は更に1年ほど続くものの、チャールズ1世がスコットランド軍に降伏し捕縛され、ついに集結を見ます。

イングランドでは、議会派の中での主導権争いが起きます。オリバーの属する国王との妥協を許さない独立派と、妥協を求める長老派の対立で、最終的には独立派が主導権を握り、長老派は議会から追放となります。

1648年にチャールズ1世が再度決起するものの処刑され、ついに翌年5月にイングランドは王国から共和国へと生まれ変わります。

ここからのオリバーは、国王に対立していた頃と少し変化していきます。まずは、急進的な平等派を弾圧、1649年にはアイルランドに侵略し住民を虐殺、1650年スコットランドに遠征し翌年皇太子チャールズのスコットランド軍を撃破、そのまた翌年には英蘭戦争の原因を作るのです。

そして1653年にはついに議会を解散し、12月16日に王並みの権力を持つ護国卿に就任するのです。護国卿になった彼は軍事的独裁を行ない、その死後は息子のリチャードがその地位を継ぐという、王家の様相を呈しました。

王権に対立したオリバーとその息子の政権は、はからずも王のような姿に変貌し、共和国をたった11年で崩壊させてしまったのでした