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カストロは自分の正当性を信じて【キューバ革命】を成功させた!

フィデル・カストロ(1926年8月13日~2016年11月25日)は、「キューバ革命」の発端となる武装闘争で逮捕された時、自分の正当性を信じていて、歴史的には無罪だとの確信がありました。この強い信念が、革命を成功させたのです。

1952年3月10日、フルヘンシオ・バティスタが軍事クーデターを起こし、大統領となってキューバに親米政権を樹立します。そして、同年行なわれた議会選挙を無効にするなどして、独裁政治を始めるのです。

1953年7月26日、フィデルは百名を超える仲間を引き連れて、キューバ南東部の都市サンティアーゴ・デ・クーバにある、モンカダ兵営を襲撃しました。これが「キューバ革命」の始まりとなり、彼ら襲撃者たちから引き継がれたのが革命運動組織「7月26日運動(M26)」なのです。

襲撃の結果、フィデル側では80名を超える死者を出し、彼自身も逮捕されてしまいます。フィデル側死者の一部は戦闘によって亡くなったものですが、多くの者が逮捕後に政府軍によって見せしめに虐殺されたのでした。

フィデルと弟ラウルら首謀者たちは、高度な政治的裁判にかけられます。そこで彼は、「歴史が私に無罪を宣告するであろう」と主張し、その強い信念を吐露するのでした。

結局、カトリック司祭の仲裁によって、どうにか死刑にはならずに済んだフィデルでしたが、15年間の懲役刑に就くこととなるのです。ピノス島(現在の青年の島)のモデロ刑務所では、キューバ独立革命の英雄ホセ・マルティの著書を愛読し、1955年5月他の政治犯と共に恩赦となり解放されます。

釈放から2ヶ月後、カストロ兄弟はメキシコに亡命し、当地の追放キューバ人を集め、M26の強化に奔走します。そんな中、フィデルはアルゼンチン人の放浪医師チェ・ゲバラに会い、その後のキューバ革命の成功に向かっていくのです。

メキシコでフィデルは、キューバ政府の要請を受けた警察によって逮捕されるものの、メキシコ革命大成者ラサロ・カルデナス元大統領の嘆願によって釈放されるという一幕もあったのでした。

1956年11月、ゲリラ戦の訓練を積んだM26一行82名は、8人乗りボートに乗り込んでキューバに向かいます。しかし、12月2日にキューバに上陸するやいなや政府軍の迎撃を受け、僅か18名(12名とも)だけからがらマエストラ山脈へと撤退するのでした。

マエストロ山脈で政府軍とのゲリラ戦を続け、しだいにM26は民衆の支援を得るようになっていきます。メンバーにもラウル、チェ・ゲバラ、フアン・アルメイダ、カミロ・シエンフェゴスなどがいて、組織は八百人を超えるほどに大きくなっていきました。

1958年5月24日、政府軍が17もの大隊で進軍してくるフィデル軍を迎えます。フィデル軍は、カストロ兄弟とフアン・アルメイダの指揮下、チェ・ゲバラとシエンフェゴスの指揮下の、2部隊編成で首都ハバナを目指していました。

圧倒的多数の政府軍ではあったものの、多くの兵士が軍務放棄してしまい、フィデル軍は「ヤガイェイの戦い」・「サンタクララの決戦」などで大勝利を収め、12月31日にはほぼ政府軍の敗北は決まります。

1959年1月1日、政府軍のバティスタ大統領はドミニカ共和国へと亡命するのです。フィデルの自分の正当性を信じた結果訪れた、キューバ革命の歴史的な成功でした。

相対性理論は失敗だった?アインシュタインがやり直したかった選択

ドイツ生まれの理論物理学者アルベルト・アインシュタイン(1879年3月14日~1955年4月18日)は、数々の偉大な物理学の業績を残しました。中でも「相対性理論」は彼の代名詞とも言えるものですが、実はこの理論の提唱は失敗で、できることならやり直したかった選択だったと言うのです。

1905年、アルベルトは「特殊相対性理論」として、最初の相対性理論を発表します。そして、ここから導き出される「エネルギーE=質量m×光速度cの2乗」という、最も有名な公式も発表するのです。

1909年、チューリッヒ大学の助教授となったアインシュタインは、翌年にはプラハ大学の教授に、1911年にはベルリン・カイザー・ヴィルヘルム化学・物理学研究所の所長にまで出世します。そして、1912年には母校のチューリッヒ連邦工科大学の教授となり、翌年にはプロイセン科学アカデミーの会員となるのです。

1914年、第一次世界大戦が始まると、平和行動について「ヨーロッパ人への宣言」を書きます。その翌年には、小説家で平和主義者のロマン・ロランと会い、命がけの平和運動をする人々の援助について論じあっているのです。

1916年、今度は「一般相対性理論」を発表します。そして1919年、この理論の立証ため行われた皆既日食時の観測が大きなニュースとなり、アインシュタインは一躍世界的有名人の仲間入りを果たすのです。

1921年にはアメリカ、翌年3月にはフランスと訪問し、10月になって日本訪問へと旅立つのでした。そして、日本へ向かう船中でのこと、11月9日になって、前年度保留になっていたノーベル物理学賞受賞の報を受けたのです。

但し、この賞の受賞対象は「光電効果の発見」で、「相対性理論」へのものではありませんでした。このことは、その後原爆開発へと繋がり、その時の訪問国・日本との関係からすれば、多少は「良かった」と思える決定だったと考えることもできます。

アインシュタインの世界各国の訪問は続きますが、1930年になってヒトラーがドイツの政権を握ると、ユダヤ人である彼に故郷へ戻ることは叶わなくなります。そして、1935年にアメリカ国籍を申請し、1940年になってその取得が叶うのです。

その少し前の1939年9月1日、第二次世界大戦が始ります。すると、ヒトラー政権のナチスが原爆を開発することを恐れた亡命ユダヤ人物理学者たちは、時のアメリカ大統領ルーズベルトに原爆開発を要請する信書を送ることにします。

アインシュタインはこの信書に署名を貸し、アメリカの原爆開発のスタートに手を貸したものの、政府からは彼の政治姿勢は警戒され、その後の計画についてはまったく知らされることはなかったのです。

1942年にアメリカは、「マンハッタン計画」として原爆の開発に着手します。一方のアインシュタイン自身は、1943年になって海軍省兵器局顧問となって、魚雷の起爆装置改善に携わるのでした。

1945年7月16日、世界初の原爆実験が行われ、その後1ヶ月もしない8月6日と9日、広島と長崎に原爆は落とされます。日本への原爆投下に驚いたアインシュタインは、「勝利はしたが、平和は得ていない」という趣旨の演説を行いました。

そして亡くなる前年には、原爆投下を予見できていたら、1905年の公式を破棄したいとも語っています。この公式の発表と原爆開発を薦める信書への署名が、アインシュタインの生涯最大の選択だったと言え、できることならやり直したかったことでしょう。

ヒトラーは世界史最悪の反面教師!【ホロコースト】への選択の道

アドルフ・ヒトラー(1889年4月20日~1945年4月30日)は、世界史上を見渡す中最悪の反面教師と言えるでしょう。独裁者としてドイツに君臨した彼の選択の道は、あまりにも悲惨な大災厄「ホロコースト(ユダヤ人の大量殺戮)」を生みだしたのです。

皮肉にも「ホロコースト」という名称は、元々はユダヤ教で使われているもので、神に生贄として獣を丸焼きにして備える「燔祭(はんさい)」を意味していました。そのため、ユダヤ教徒にとってはヒトラーの暴虐にこの名称を使うことには批判的な者も多いのです。

ヒトラーの出生地はオーストリア=ハンガリー帝国で、6才で父アロイスの仕事の関係でバイエルン王国(現在のドイツ南部)に移住します。2年後オーストラリアに戻り、この時から父との諍いが始まることとなります。

自分のはっきりしない血統を打ち消すかのように、ヒトラーは独裁者となったのちに、ドイツ国民こそ最も純粋なアーリア人であるとの考えの下、「ホロコースト」へを突き進んでいくことになるのです。

この父もヒトラー14才の時に亡くなり、彼は実技学校を中退、16才で再び別の実技学校も中退、その後は正規の教育を受けることはありませんでした。各地を転々としていたヒトラーは、24才になって兵役を逃れるため国外逃亡します。

翌年、強制送還された彼は、結局兵士としては不適合と判断され、徴兵されることはありませんでした。しかし、ドイツ帝国が第一次世界大戦に参戦するや否や、彼はバイエルン軍に入って義勇兵となります。

1918年、ヒトラーは伍長として、野戦病院で入院中に大戦の終結を迎えます。そして、翌年にはバイエルン・レーテ(社会主義者の政権)軍に入り、スパイとしてドイツ労働者党(DAP)の調査を担当します。

1919年9月12日、DAPの会合に参加したヒトラーは、大学教授との大論争を展開し、その雄弁さに感心した党代表のドレクスラーから、入党の招待を受け、その月の内に仲間入りしてしまいます。この年書かれたヒトラーの手紙には、ユダヤ人の除去を最終目標とする内容が書かれていました。

その後NAPは、ヒトラー主導の下、国家社会主義ドイツ労働者党(DNSAP、ナチス)へと改称します。このナチスが、ドイツとユダヤ人、そして世界中を恐怖の渦へと巻き込んでいくのです。

1933年3月28日、ヒトラー内閣成立から2ヶ月後のこと、「反ユダヤ主義的措置の実行に関する指令」という、ユダヤ人への大規模ボイコット命令が出されます。ついに、ヒトラーによる独裁が顕在化し、「ホロコースト」への動きが具体化され始めたのでした。

1935年9月15日、「ニュルンベルク法」の制定によって、ユダヤ人はドイツ国籍であっても帝国市民としての権利は無くなり、ドイツ人類縁との婚姻などが禁止されます。そして、1937年にはユダヤ資本の解体、1938年にはユダヤ人がユダヤ姓を変えることが禁止されました。

1939年1月24日、ユダヤ人の国外移住政策が開始されますが、9月1日の第二次世界大戦の勃発によって、この政策の実施は困難なものになっていきます。1940年5月、ヨーロッパのユダヤ人をマダガスカル島への移送するという「マダガスカル計画」も、中止に追い込まれます。

1941年12月12日の会議で、ヒトラーはユダヤ人の絶滅の必然性について演説し、翌年1月20日の「ヴァンゼー会議」において、「ホローコースト」の方針が決定づけられるのです。もっと他に選択肢は無かったものなのか、歴史上最大の汚点と言えるでしょう。

【五・一五事件】楽観的考え方の犬養毅は暗殺された!

「五・一五事件」は時の内閣総理大臣・犬養毅(1855年6月4日~1932年5月15日)が、大日本帝国海軍の青年将校らに暗殺されるという、未曾有の反乱事件でした。その凶行を防げなかった大きな原因は、彼の楽観的な考え方にあったと言えます。

1930年10月2日、「ロンドン海軍軍縮条約」が批准されます。この条約の内容が海軍将校らの不満を募り、翌年の陸軍が起こした満州事変においても、事態を収拾できない政府に対して、更なる不満は蓄積していたのです。

条約批准時の首相は濱口雄幸、全権大使は元首相の若槻禮次郎でしたが、その後若槻内閣から犬養内閣となっていっても、政府に対する海軍将校らの不満は高まっていました。そして、ついには首相官邸・内大臣官邸・立憲政友会(犬養を総裁とする政党)本部・警視庁などを襲撃する反乱へと発展したのです。

1932年5月15日は日曜日で、前日に来日していたイギリスの喜劇俳優チャールズ・チャップリンとの面会がキャンセルとなって、犬養は首相官邸でゆっくりと過ごしていました。夫人・秘書官・護衛らのほとんどが外出し、犬養は医者の往診を受け、鼻を治療していたのです。

鼻以外はというとどこにも異常は認められず、犬養は「あと百年は生きられそう」と言ったといいます。しかし、何事もなく一日が過ぎて行くのかと思われた午後5時27分頃、事件は始まります。

警備が甘くなっていた官邸襲撃の第一組は9名で、表門には中尉の三上卓ら5名、裏門には中尉の山岸宏ら4名、それぞれに車でもって乗りつけてきました。そして、警備の警察官・田中五郎巡査は銃撃戦の末重傷を負い、11日後には一命を落とすことになるのです。

官邸内に侵入した三上は、計画通り問答で手間取って失敗することが無いよう、食堂で見つけた犬養を銃撃しようとしたものの、なぜか銃弾が入っておらず失敗します。そこで犬養は両手を挙げて、「まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう」と三上の説得を繰り返しました。

ここで即座に逃げれば良い所ではありますが、犬養は自分の考え方と日本の将来のあり方などを論じようと、何と襲撃者たちを応接室へと案内するのです。そして、土足の彼らに対し靴ぐらいは脱いだらどうかと言って、三上から自分たちの襲撃の目的を告げられ、「何か言い残すことはないか」と言い返されました。

どうにか応接室に入った襲撃隊第一組の面々を説得しようとする犬養に対して、裏門から侵入した山岸は「撃て、撃て」と叫びます。そこへ後続の襲撃者たち(黒岩勇らが裏門から侵入し、その叫び声を耳にしました。

応接室に入った黒岩は、すかさず首相の腹を目がけて一発射撃、続いて山岸も首相の右こめかみに狙いを定めました。すると、山岸には首相のこめかみに小さな穴が開いて血が流れ出すのが見え、三上が銃弾を発したのを知ります。

襲撃者が官邸を去った後、邸内に残っていた女中のテルが犬養に駆け寄ったところ、彼は瀕死の状態であるにも関わらず襲撃者たちを呼び戻すよう訴えました。そのような状況に陥ったというのに、まだ話せば分かってもらえるものと楽観視していたのです。

夜10時になって犬養は血を吐いてしまいますが、それを心配する人々を励ますほどの元気がありました。しかし、11時26分、ついには衰弱しきった犬養は息をひきとったのです。

世の中の情勢を楽観的に見ていた首相の、あまりにも壮絶な最期でした。

袁世凱は中国に強いリーダーを望んだ!中華帝国の失敗

袁世凱(えんせいがい、1859年9月16日~1916年6月6日)は、国家の中心となる元首に強権があってこそ乱れた国内を治められるという考えを持ち、中国に強いリーダーを望みました。しかし、その考えの下作り上げた中華帝国は大失敗に終わるのです。

若い頃の袁世凱は清王朝の官僚を目指していましたが、二度に渡って登用試験の科挙(かきょ)に落第し、思い直して軍人への道を進むこととなります。

1881年、管轄地域の軍政と民政を統括する直隷総督(ちょくれいそうとく)の李鴻章(りこうしょう)の下、地方軍の淮軍(わいぐん)に入った袁世凱は、朝鮮に渡り壬午(じんご)事変(1882年7月23日)・甲申(こうしん)政変(1884年12月4日)の鎮圧に活躍します。

甲午(こうご)農民戦争(1894年)・日進戦争(1894年7月25日~1895年11月30日)を経て、1895年10月に袁世凱は陸軍を洋式化する任務を任されます。やがてこの時の軍事力が、袁世凱の力そのものになっていくのです。

軍事力と「ストロング・マン」の異名をとるほどの強権的な政策によって、袁世凱は着々と出世街道を進んで行きます。そして1911年11月16日、政治家としてはトップとなる清王朝の内閣総理大臣(~1912年2月12日)に就任するのです。

1912年2月12日、清王朝が倒れ中華民国が成立、3月10日に袁世凱は臨時政府の国家元首として臨時大総統(~1913年10月10日)に就任します。そして1913年10月10日には、正式な国家元首として、最初の大総統(~1915年12月12日)にまで上り詰めるのでした。

袁世凱が望んだ強いリーダーとしては、この大総統が最良の地位であったと考えられます。ところが彼は、更にその上を目指し、倒した清王朝と同様な皇帝への即位を模索し始めてしまいます。

1915年12月12日、袁世凱は側近の楊度(ようたく)を使って、自らを皇帝の地位に就かせました。これによって国の名称は「中華帝国」となり、結局は清王朝と変わらないものとなってしまったのです。

12月25日、袁世凱の皇帝即位を受けて、南方軍閥(雲南派)の唐継堯(とうけいぎょう)・蔡鍔(さいがく)・李烈鈞(りれつきん)などが雲南省で独立宣言の上、袁世凱討伐のため護国戦争(~1916年7月14日)を起こします。

1916年1月1日、元号を「洪憲(こうけん)」として、いよいよ王朝の様子を呈してきた中華帝国は、学生らの強烈な反発を招きます。北京における学生デモ、地方軍閥の反乱、北洋軍閥諸将の批判、日本政府の非難と、中華帝国の存在は危機的状態に陥っていきました。

3月22日、取り巻く情勢には抗いきれず、袁世凱は護国戦争の最中退位を決意、再び中華民国の大総統に戻り、その後2ヶ月半ほどで亡くなるのでした。国家に強いリーダーを求めて自ら皇帝になるという選択をしてしまった男の、なんとも侘しい最期でした。

小さな女性が【南北戦争】を起こした!?ストウ夫人の奴隷制廃止運動

「小さな女性」と称されたストウ夫人の、奴隷制廃止運動のひとつとして出版された「アンクル・トムの小屋」が、奴隷制の是非を争いの論点のひとつとする「南北戦争」を引き起こしました。

一般にストウ夫人として知られるハリエット・エリザベス・ビーチャーは、1811年6月14日、アメリカ合衆国北東部のコネチカット州で生まれました。父は奴隷制反対論者の会衆派教会説教者ライマン、母ロクサーナ、兄弟にはキャサリン、ヘンリー、チャールズ、エドワードがいます。

ハリエットが生まれた1年後の1812年6月18日、合衆国とイギリス・カナダ連合軍がそれぞれに同盟を結んだインディアン諸部族と共に戦う米英戦争が勃発します。この戦争によって工業化を進め保護貿易を望む合衆国北部と、農業中心で黒人奴隷制に支えられ自由貿易を望む合衆国南部の立場が浮き彫りになるのです。

1832年、ビーチャー一家は奴隷制反対運動の中心地のひとつオハイオ州シンシナティに移住します。ここでレーン神学校の初代校長となった父ライマンの下、ハリエットは奴隷制と合衆国南部の奴隷を北部やカナダへ逃亡させる秘密組織「地下鉄道」の知識を得ました。

1836年、ハリエットは先妻と死別した聖職者カルヴィン・ストウと結婚します。そして、夫のボウディン大学の教授職就任に伴い、合衆国最東北部のメイン州へと移住するのです。

シンシナティでの生活からストウ夫人はしだいに奴隷制廃止運動に目覚めていき、聖職者の夫の下でついには黒人奴隷の過酷な半生を描くことを決意するのです。その小説「アンクル・トムの小屋」は、1851~1852年に奴隷制廃止論者の雑誌に発表され、1852年3月20日に本として出版されました。

初老の黒人奴隷トムは物語の始めはシェルビー家にいて、そこの息子ジョージに慕われ幸せに暮らしています。しかし、シェルビー家の衰退によって、悪魔のような農場主レグリーの奴隷となり、過酷な仕打ちに遭います。

物語の途中では、天使のような少女エヴァジェリンとの出会いもありますが、結局はシェルビー家のジョージが買い戻しに行くのが間に合わず、トムは帰らぬ人となってしまうのです。この後ジョージは奴隷制廃止運動を始めることとなり、この小説は合衆国内で大変な反響を呼んだのでした。

そして、1853年には逃亡奴隷の体験談を抜粋した「アンクル・トムの小屋への鍵」、1856年には小説第2作目となる奴隷制反対の物語「ドレッド」を発表、その後も「牧師の求婚」・「オー島の真珠」・「オールドタウンの人々」・「私の妻と私」・「ヤシの葉」など、多くの小説や旅行ガイドなどを出版しています。

1857年3月6日、合衆国最高裁判所で歴史的転換点となる重大な判決が下されます。アフリカ人の子孫は奴隷であろうがなかろうが、合衆国市民とは認められず、従って裁判に訴えることもできないとするものでした。

これは「ドレッド・スコット対サンフォード事件」に対する判決で、カンザス・ネブラスカ法の議論、過激派奴隷制度廃止運動家ジョン・ブラウンらによる武器庫襲撃などと共に、奴隷制に関する問題のひとつで、合衆国南北対立を収拾できなくするほどのものだったのです。

1861年4月12日、奴隷制と貿易での対立軸で「南北戦争」が始り、70~90万人の被害者を生んで、1865年6月22日に最後の砲弾が放たれ、北部(合衆国)が南部(連合国)を下しました。

開戦の前年に合衆国大統領となっていたリンカーンは、1862年にストウ夫人に会った際、「あなたのような小さな方が、この大きな戦争を引き起こしたのですね。」と挨拶をしたと言われています。

【西南戦争】で散った西郷隆盛は「敬天愛人」を思想とした!

西郷隆盛(1828年1月23日~1877年9月24日)は、「敬天愛人(天を恐れ敬い、人を慈しみ愛する)」の思想を持って生き、旧薩摩藩士族反乱軍のリーダーとして日本最後の内乱「西南戦争」で散っていったのでした。

隆盛は薩摩藩(現在の鹿児島県・宮崎県南西部)の下級武士の出で、時の藩主・島津斉彬によって抜擢され、その影響を強く受けながら藩の役人を務め、斉彬の死後に失脚し、奄美大島と沖永良部島へ二度の島流しに遭っています。

薩摩藩家老・小松帯刀(こまつたてわき)と幼なじみの大久保利通(おおくぼとしみち)の口添えで藩政に返り咲いた隆盛は、禁門の変→長州征伐→薩長同盟→王政復古→戊辰戦争→江戸無血開城という激動の中で活躍を続けます。

そして一時は薩摩に帰った隆盛でしたが、1871年に参議となった後は、陸軍大将と近衛都督に就き、岩倉使節団がアメリカ・ヨーロッパ諸国を外遊している間は留守政府を任されていました。まさに「敬天愛人」を是とする隆盛には、絶頂期と言える時です。

この時期、日本と隣国・李氏朝鮮(朝鮮半島に存在した国家)には、国交回復問題がありました。隆盛・江藤新平・板垣退助ら留守政府要人は朝鮮開国に賛成であり、外遊中の利通・孝允・岩倉具視ら反対派との対立があり、岩倉使節団の外遊期間は大きなチャンスだったのです。

外遊中は国家に関わる重要案件を決定しないという盟約を破り、隆盛らは朝鮮開国を勧める使節の派遣を提案し、閣議で大使に任命されます。しかし、時の天皇(明治天皇)は盟約を守り、使節団の帰国を待って再度検討することを選び、朝鮮派遣は却下となりました。

1873年9月13日、外遊を終えた岩倉使節団が帰国し、翌日から二日間に渡って朝鮮使節についての閣議が行われます。結果は、賛成派から大隈重信と大木喬任(おおきたかとう)の2名が反対に変わり、採決は同数となってしまうのでした。

隆盛は議案が通らなければ辞任をすると強硬な姿勢を示し、その辞任に呼応して薩摩出身の官僚と軍人も新政府を見限ってしまうことを恐れた議長の三条実美は、議案を直ちに実行する採決を下してしまいます。この決定に反対派の利通・孝允・重信・喬任は辞表を出し、具視も辞意を宣言してしまいます。

9月17日、実美が倒れて、20日に具視がその太政大臣の代理になります。22日に隆盛・退助・新平らが具視に朝鮮派遣の上奏を具視に要求、翌日に具視は派遣と派遣延期の2案を明治天皇に上奏、結局は朝鮮派遣は無期延期と決定されたのです。

9月24日、隆盛・新平ら5名の参議は辞表を提出し、翌日には受理され、これに呼応した官僚と軍人およそ六百名が新政府を離れたのでした。隆盛は鹿児島県となっていた薩摩に戻り私学校を作り、県内の若者の教育に専念します。

朝鮮への使節派遣を巡る新政府の政変劇はこれだけでは終わらず、その後の政府に対する士族の反乱へと繋がっていきます。1874年2月1日には新平らの佐賀の乱、1876年10月24日には熊本士族による神風連の乱(しんぷうれんのらん)、27日福岡の秋月の乱、28日山口県萩士族の萩の乱と続いていきます。

各地の士族反乱とも関連して、隆盛の私学校は政府に反乱をする志士の養成機関と見なされていました。そしてついに、私学校の生徒たちが暴動を起こし、隆盛は彼らのリーダーとして西南戦争の渦中へと飛び込んでいくのです。

政府軍7万に対して、隆盛側は半分以下の3万ほど、熊本・宮崎・大分・鹿児島と広範囲に渡った内戦は、1877年9月24日に行われた城山籠城戦をもって終結に至り、隆盛は同志たちの見守る中切腹して果てたのです。

【桜田門外の変】襲撃の密告にも動じずに登城した井伊直弼の決断力

専制政策路線を採る井伊直弼(いいなおすけ、1815年11月29日~1860年3月24日)が暗殺された「桜田門外の変」は、その後の江戸幕府崩壊へと繋がる歴史的転換点です。直弼は強い決断力をもって、襲撃の密告にも動じずに登城し、この災難に遭ったのでした。

直弼は近江(現在の滋賀県北部)彦根藩第15代藩主にして、江戸幕末の混乱期を幕府大老として主導しました。その決断力は非常に強く、幼名の鉄之介(後に鉄三郎)を地でいったような性格だったのです。

運命の「桜田門外の変」は、1860年3月24日の出来事です。「将軍継嗣問題」と「日米修好通商条約の締結」という、幕府及び日本にとって二つの大きな問題に直面し、開国による近代化の断行と、「安政の大獄」といす反対勢力の粛清に対する結果と言えます。

実は変が起こる直前の24日早朝のこと、直弼の居る彦根藩邸に襲撃を知らせる密告書が投じられていました。首謀者は反対勢力の水戸藩浪士との具体的な内容で、充分に信頼すべき情報でしたが、直弼はまったく動ずる気配が無かったのです。

3月10日、変の計画首謀者の金子孫二郎・金子勇次郎・稲田重蔵・佐藤鉄三郎・飯村誠介らが水戸を出立、17日には江戸に到着します。襲撃現場の総指揮を執った関鉄之介はこれより早く11日には江戸入り、他にもぞくぞくと一味は江戸に集結、最終的には水戸浪士17名・薩摩藩士1名が暗殺の機会を待ったのでした。

3月22日に孫二郎が日本橋西河岸の山﨑屋に主要7名を招集し、24日の襲撃実行を取り決めます。そして、23日には品川宿の相模屋に最初で最後の一味集合が行われ、決別の酒宴を開いたのでした。

3月24日早朝、直弼は水戸浪士らの襲撃の密告書を藩邸で受け取ります。しかし、反対勢力の脅威を意に介しない彼は、いつどおりの供揃え60余名で登城することを選択し、いつもどおり午前9時頃に藩邸を出ました。

直弼が藩邸を出た直後、藩邸で彼を見送った藩の側役・宇津木左近は、直弼の机上に開封された密告書を見つけます。襲撃のことを知った宇津木はすぐに護衛の増派を準備しますが、時すでに遅かったのでした。

この日の天気は雪、直弼一行が桜田門外の杵築藩邸の門前にさしかかったおり、短銃による最初の襲撃が駕籠の中の直弼に深手を負わせます。加田九郎太包種ら4名が防御するも闘死、岩崎徳之進重光ら4名は負傷し帰邸後死亡、無傷・軽傷で帰邸した7名の彦根藩士は入獄後斬首となりました。

直弼自身は銃で傷を負った後、幾重にも刺客による刀の突きを受けて、虫の息となったところを駕籠の外に引き出されます。そして、襲撃者唯一の薩摩藩士・有村次左衛門の手によって斬首されたのでした。

この変による歴史への影響には、非常に多大なものがありました。幕府の権威は地に落ち、尊皇攘夷運動が勢いを増し、わずか8年足らずで「大政奉還」による幕府の終焉を迎えるのです。

「安政の大獄」における過酷な粛清などから、「井伊の赤鬼」とも呼ばれた直弼の、誰の意見にも曲げられない強情とも言える決断力が招いた、歴史的な事件でした。

ワットは産業革命を進展した!しかし、蒸気機関車の開発は遅れた

イギリスの発明家ジェームズ・ワット(1736年1月19日~1819年8月25日)は、イギリスの発明家トマス・ニューコメンが作った初めての実用的な蒸気機関を改良して、全世界の産業革命の進展に貢献しました。しかし、蒸気機関車に関しては、新技術の妨害を行ない、その開発を遅らせてしまったのです。

蒸気機関の歴史は、古代ローマの時代に遡ります。初めは「ヘロンの蒸気機関」という、球の両端から蒸気を噴出させてその球を回転させるものでした。

1690年には、フランス生まれの物理学者ドニ・パパンが、蒸気機関の模型を製作します。続いて1689年になると、イギリスの発明家トマス・セイヴァリが、火の機関(セイヴァリ機関)を開発し、特許の取得に成功しています。

セイヴァリ機関の特許内容が、火力で揚水する装置というもので、ニューコメンはこの仕組みやパパンの模型を参考に、初めて実用的な蒸気機関を作製したのでした。これは1712年のことで、鉱山の排水用に使われ、その後イギリスを始め世界中で巻き起こる「産業革命」の芽生えとも言える出来事です。

「産業革命」の始まりは、1760年代のイギリスとされています。それに少し先んずる1757年のこと、グラスゴー大学で天文学機器の調整に技量を発揮したワットは、大学内に小さな工房を作ってもらうことになり、そのことが蒸気機関との出会いに、そして産業革命へと繋がっていくのでした。

1761年、工房において友人の教授ジョン・ロビソンから蒸気機関のことを聞いたワットは、それに興味を持ち、模型を作っては動作させようとする実験を繰り返しました。模型はなかなかうまく動作はしませんでしたが、ワットに熱の基礎知識を蓄積することになり、大学のニューコメン機関を修理するまでに至ったのです。

1769年、ワットは様々な実験の末、新方式の開発に成功します。ニューコメン機関に復水器を取り付ける改良を行なって、効率アップを行なった他、正圧の利用・回転運動への変換・調速機の利用と、数々の改良点を追加したのです。

1775年には、ワット自ら土木技師として働き、マシュー・ボールトンの資金協力を得て、自身の蒸気機関に関する特許を元に、ボールトン・アンド・ワット商会を設立し、新型の蒸気機関の商品化事業を始めました。そして、翌年には最初の業務用動力機関が完成し、研磨・紡績・製粉などへの産業界へと進出して行くのです。

この後もワットは、1781年の遊星歯車機構、1781~1782年の複合機関、1784年の平行運動機関、1788年の出力調整用絞り弁と遠心力調速機など、蒸気機関に関する特許を取り続けていきます。そして、1794年には商会を蒸気機関製造会社に発展させ、大企業へと成長して行くのでした。

ワットの蒸気機関の特許は、1800年にその効力が消滅します。産業革命に大きく貢献していたワットの特許ではあったものの、実はその効力が進歩を速度を遅らせている面もあったのです。

その証拠に、この特許の効力が切れてすぐに、リチャード・トレヴィシックなどが高圧蒸気機関を開発し、アメリカでもジョージ・コーリスが大幅に蒸気機関の効率を改善したりと、産業革命の進展を大きくしているのです。

またワットは、自社工場の技術者ウィリアム・マードックの高圧蒸気機関の開発を禁じ、自分の蒸気機関の改良だけをやらせます。このため、蒸気機関車が開発されるのは、1804年のトレヴィシックまで待たされることとなったのです。

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マリー・アントワネットの結婚に選択の自由は無かった!革命と反革命

フランス国王ルイ16世の妃マリー・アントワネットには、自分の結婚に自らの人生の選択として、自由はまったくありませんでした。フランス革命の最中、夫に代わって反革命の立場を取ったことが、彼女を生涯の終わりへと導いてしまったのです。

1755年11月2日、ウィーンにおいて神聖ローマ皇帝フランツ1世(在位:1745年~1765年)に11人目の女の子が生まれました。母親はオーストリア女大公マリア・テレジア(1740年~1780年)で、ハプスブルク君主国の実質的な”女帝”です。

女の子の正式な名前は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンといいます。この女の子に最初の大きな人生の歴史的転換点が訪れたのは、彼女が14才の時でした。

その歴史的転換点までの、彼女の兄弟たちの人生は次のような感じです。

第1子長女マリア・エリーザベトは、病気でわずか3才で亡くなります。そして、第3子三女マリア・カロリーネは、わずか2才で亡くなり、同じ名前の第10子七女も生まれてすぐに亡くなってしまいます。

第2子次女マリア・アンナは、生涯独身を貫き母の死後は修道院への奉仕を行い、53才で亡くなります。

第4子長男ヨーゼフ・ベネディクトは、24才で神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世となり、急進的な改革を行なって「民衆王」・「皇帝革命家」・「人民皇帝」などと呼ばれました。そして、第9子三男ペーター・レオポルトは、兄ヨーゼフ2世の後を継いで神聖ローマ皇帝となりました。

第5子四女マリア・クリスティーナは、母から最も可愛がられ兄弟の中で唯一恋愛結婚を認められますが、兄弟姉妹とはあまりうまくいっていませんでした。最愛の夫とは、一緒にテシェン公国を統治しました。

第6子五女のマリア・エリザベートは、姉妹の中では最も綺麗で母のお気に入りで、フランス王ルイ15世との政略結婚が決まりかけいましたが、天然痘のため醜くなり、その縁談話も母の愛情も消えてなくなりました。

第7子次男カール・ヨーゼフは、明るい性格と魅力的容姿に加え知性も有り、両親から溺愛されていましたが、天然痘に罹り15才で亡くなります。続く、第8子六女マリア・アマーリアは、望む結婚を認められず、嫁がされた先では荒れた生活をしたのでした。

第11子八女ヨハンナ・ガブリエーラと第12子九女マリア・ヨーゼファもまた、天然痘に罹りそれぞれ12才と16才で亡くなりました。

第13子十女の三人目のマリア・カロリーネは、ルイ16世との結婚が考えられていました。しかし、ナポリ王フェルディナンド4世と婚約していた九女が亡くなった為、代わりにナポリへと嫁がされます。

第14子四男フェルディナントは、オーストリア=エステ大公を務めました。

第15子十一女がマリア・アントーニアで、十女のナポリ王との結婚によって、ルイ16世との結婚という歴史的転換点が巡って来たのです。14才の彼女には、母の政略に反対できる選択権はまったくありませんでした。

選択の余地のない状態で政略結婚させられ、フランス名マリー・アントワネットとなった十一女でしたが、夫との関係は非常に良いものでした。1774年夫が即位し王妃となると、彼女は宮廷のしきたりの改革に着手し、反感を買うこととなります。

1789年にフランス革命が勃発すると、マリーはその対応ができない夫に代わり、反革命の立場を明確にします。それは、オーストリアの実家にフランスの情報を流出するというものであったため、国民からは裏切り行為と見られてしまうのでした。

結果、1793年10月16日、マリーはギロチンの刃の露と消えたのです。

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