Authorbluefish2017

クロムウェルは王に替わってイングランドを牛耳った!護国卿の独裁

オリバー・クロムウェル(1599年4月25日~1658年9月3日)は、イングランド王・チャールズ1世(在位:1625年3月27日~1649年1月30日)をスコットランドに追いやって、王に替わってイングランドを牛耳ったのです。王の権威に匹敵する、護国卿の独裁の始まりでした。

オリバーの実家はピューリタン(キリスト教プロテスタントの大グループ)で、下級の地主でした。

1639年、スコットランド王でもあるチャールズ1世がイングランド国教会形式の祈祷書を、スコットランドに強制したことをきっかけに、清教徒(ピューリタン)革命の端緒となる主教戦争が勃発します。戦いは翌年にも行われ、スコットランド側が勝利を勝ち取り、チャールズ1世は長期議会の開催を余儀なくされたのでした。

オリバーはこの戦いの最中に開催された短期議会と、勝利の結果行われることになった長期議会の議員に選出されます。そして、清教徒革命が巻き起こる時期は、議会を支持する「議会派」に属し、王制を支持する王党派と対立していくのでした。

1642年10月23日のエッジヒルの戦いでは、上流人士の騎士による国王軍に対し、酒場の給仕や職人で編成されたイングランド議会軍の劣勢は明らかで、オリバーに信者による軍の編成を提案させるに至りました。戦い自体は、国王軍の戦略の失敗もあって、どうにか引き分けに終わります。

1643年6月30日のアドウォルトン・ムーアの戦いでは、有利に戦いを進めていた議会軍に対し、国王軍の最後の突撃が巧を奏し、国王軍大逆転の勝利に終わるのです。ここでも民兵編成の議会軍の弱さがはっきりし、その早急な改革が急がれることとなったのです。

1643年10月11日のウィンスビーの戦いでは、イングランド東部のリンカンシャーから王党派を排除するのに成功するものの、年内中は国王軍有利で戦況は展開していました。

1644年7月2日のマーストン・ムーアの戦いでは、主教戦争を引き起こしたスコットランド盟約派が議会軍と連合し、国王軍を撃退してイングランド北部での優位を勝ち取ります。この戦いでのオリバーの活躍には目覚ましいものがあり、その功績をほとんど一人占めしたような感じでした。

1645年6月14日のネイズビーの戦いでは、ついに議会軍の決定的勝利となります。内戦は更に1年ほど続くものの、チャールズ1世がスコットランド軍に降伏し捕縛され、ついに集結を見ます。

イングランドでは、議会派の中での主導権争いが起きます。オリバーの属する国王との妥協を許さない独立派と、妥協を求める長老派の対立で、最終的には独立派が主導権を握り、長老派は議会から追放となります。

1648年にチャールズ1世が再度決起するものの処刑され、ついに翌年5月にイングランドは王国から共和国へと生まれ変わります。

ここからのオリバーは、国王に対立していた頃と少し変化していきます。まずは、急進的な平等派を弾圧、1649年にはアイルランドに侵略し住民を虐殺、1650年スコットランドに遠征し翌年皇太子チャールズのスコットランド軍を撃破、そのまた翌年には英蘭戦争の原因を作るのです。

そして1653年にはついに議会を解散し、12月16日に王並みの権力を持つ護国卿に就任するのです。護国卿になった彼は軍事的独裁を行ない、その死後は息子のリチャードがその地位を継ぐという、王家の様相を呈しました。

王権に対立したオリバーとその息子の政権は、はからずも王のような姿に変貌し、共和国をたった11年で崩壊させてしまったのでした

伊達正宗は敵の内紛を逆手に取った!【摺上原の戦い】の舞台裏

遅れてきた戦国武将・伊達政宗は、摺上原(すりあげはら)の戦いにおいて、武勇だけでなく敵の内紛を逆手に取った戦略で勝利を勝ち取りました。その後の南奥州支配を決定付ける戦いには、政宗の知略も見える舞台裏があったのです。

1584年10月、政宗は父・輝宗の隠居を受けて米沢城(現在の山形県米沢にあった)の伊達家の家督を引き継ぎます。15才で臨んだ初陣から3年、18才の若き当主の誕生でした。

1585年、小浜城(現在の福島県二本松市にあった)の大内定綱と、二本松城の畠山義継が、政宗の正室・愛姫の実家・田村氏の支配を逃れようとします。これに激怒した政宗は、大内・畠山両氏を討つため大内領内の小手森城を攻撃し、周辺諸国への見せしめとして、城内の武将・兵・女子供全てを撫で斬りにしたのです。

この騒動で定綱は没落するものの、義継は和議を申し入れて、輝宗の取り成しでわずかな領地を安堵されます。しかし、この義継を安堵したことが災いし、後日輝宗が最期をむかえることとなってしまうのでした。

父・輝宗の死は、反伊達勢力である佐竹義重らを勢い付け、岩城常隆・石川昭光・二階堂家・蘆名家との連合を生みだします。やがて、反伊達家連合軍は政宗攻略に乗り出したのです。

1586年1月6日、佐竹・蘆名両氏など南奥州諸大名の連合軍3万と、伊達氏の軍7千が戦います。この人取橋(ひととりばし)の戦いは連合軍の勝利に終わりますが、佐竹軍内での裏切りや、佐竹氏の領地・常陸(現在の茨城県)への里見家の侵攻の憂いがあり、佐竹軍の撤退ということで伊達軍のダメージは少なかったのです。

一方、この頃の反伊達である蘆名家には、深刻な問題が渦巻いていました。1575年の第17代当主・盛興の死に始まり、1580年の既に隠居していた第16代当主・盛氏の死、1584年の第18代当主・盛隆の寵臣の襲撃による死、1586年12月31日の3才の第19代当主・亀王丸の死と、継嗣問題があったのです。

次に蘆名家を継ぐのは誰かと蘆名家中は紛糾し、曾祖母に蘆名の血脈を持った二人が候補となります。一人は政宗の弟・小次郎、他方は佐竹義重の次男・義広で、蘆名一門・家臣・周辺領主が二派に別れて対立しました。

結果、蘆名家第20代当主の座を射止めたのは義広で、その当主の下で小次郎派の粛清が行われ、蘆名家中の状況はそれまで以上に悪くなってしまったのです。この状況は、政宗にとっては絶好のチャンスとなりました。

1588年、政宗は蘆名家の黒川城(現在の会津若松市のあった)を攻めるため、その北にある猪苗代城の攻略に着手します。城主は蘆名氏の支流・猪苗代盛胤で、3年前に父・盛国から家督を譲られていました。

実は盛国は蘆名家の継嗣騒動の時、小次郎派の代表的立場にあったため、多少なりとも政宗には味方に引き入れ易いと考えられる人物だったのです。また、盛国には後妻に生ませた亀丸という息子がいて、彼は盛胤を廃してこの亀丸に猪苗代家を継がせたいと考えていました。

政宗は盛国の後妻を通じて盛国の伊達家への内応を取り付け、盛国に猪苗代城の乗っ取りを実行させるのです。そして、盛国が猪苗代城の実権を握った後、政宗は2万の大軍を組み蘆名家攻略に向かいました。

1589年7月17日、ついに摺上原の戦いの火蓋は切って落とされ、盛国の猪苗代軍の勢力を加えた政宗は大勝し、南奥州の支配へと驀進するのです。

この時、政宗は23才。織田信長が生きていれば56才、豊臣秀吉は53才、徳川家康47才であり、天下人になるには少なくともあと20年は早く生まれたかったところなのです。

石田三成は諸大名を掌握できなかった!【関ヶ原の戦い】における失敗

石田三成の関ヶ原の戦いでの失敗は、諸大名を掌握できなかったことにあります。豊臣秀吉の下、政策ではバツグンな有能さを示した三成ではありますが、武士としての人柄にはいくつかの問題点があり、大事な天下分け目の歴史的転換点では大失敗を演じたのでした。

1600年10月21日、関ヶ原の戦いは現在の岐阜県不破郡関ヶ原町で行われました。石田三成を中心とする西軍と徳川家康を大将とする東軍による豊臣家中の騒動というのが表向きの姿です。

しかし、関ヶ原での本戦以外にも、石田方と徳川方に別れた全国規模の戦闘も連動し、最終的には勝者となった徳川家康の天下取りへと繋がっていくのです。東西それぞれの武将たちの三成に対する忌避の思いがこの結果を招いたのでしょう。

東軍の大将である徳川家康は、自分が三成から反感を持たれていることは重々承知だったようです。過去には大阪城において、登城した格上の家康に対して、五奉行筆頭の浅野長政が指摘したにも関わらず、かぶっていた頭巾を取らず長政に激怒されるという一幕もありました。

西軍の大将である毛利輝元は、三成のことを「肝心の人」と称して大いに気を使う人物と捉えていました。関ヶ原の戦いにおいて大将就任の要請をしぶしぶ受けた時は、そのことを一門と重臣たちにはまったく相談をしなかったといい、おそらくそうだんすれば反対されるだろうと考えていたのだと思われるのです。

東軍第二勢力の前田利長の父・利家は、五大老のNo.2として、「家康派」と「三成派」に別れた武将たちの諍いを仲裁する役目を担っていました。その父が亡くなって五大老となった利長には、名だたる武将たちと対立する三成は、きっと疎ましいめんどうな人物だったことでしょう。

西軍第二勢力の上杉景勝が三成側に組した理由は、どちらかと言えば消極的なものと考えられます。景勝の家老・直江兼続が豊臣秀吉の死後に三成と好を通じたことから、景勝はしだいに家康と対立するようになっていったのです。

三成は秀吉への取り成し役という立場であったため、毛利輝元・上杉景勝・島津義弘などの大大名でさえ、常に三成の顔色を窺っていなければなりませんでした。そのようなこともあって、しだいに三成の大名に対する態度は無礼千万なものになっていくのです。

武闘をあまり得意としていなかった節のある三成には、武将の心を掴む技量は劣っていたようです。加藤清正などが朝鮮出兵から帰還したおりのこと、その労をねぎらうつもりで上洛時には茶会を開こうと提案しますが、戦役で甚大な損害を負っていた清正はかえって腹を立ててしまいました。

このような三成の人となりは、関ヶ原の戦いにおいて悪影響を及ぼし、吉川広家・小早川秀秋・脇坂安治・赤座直保・小川祐忠・朽木元綱などの多くの東軍への内通・西軍への叛応者を出したのです。

更に、山川朝信・木下勝俊・松野重元のように西軍の戦線を離れたり、中村一氏・堀尾吉晴・伊東祐兵・生駒親正・蜂須賀家政・日根野弘就のように病気などを理由に不参戦、はたまた中立の立場をとる者と、西軍の戦力は思うほど上がりませんでした。

全ては関ヶ原の戦いという歴史的転換点に臨むまでの、三成の大名・武将たちへの態度が災いしたのです。彼のそれまでの態度(選択)は、まさに人生を考える時の反面教師として見るべきものと言えるでしょう。

【桶狭間の戦い】4分の1以下の軍勢で今川軍を落とした信長の決断

日本三大奇襲(或いは夜戦)のひとつとされる「桶狭間の戦い」で、織田信長(1534年6月23日~1582年6月21日)は敵方・今川義元軍の4分の1以下の軍勢で勝利を手に入れます。この時の信長の決断は、その後の天下取りに突き進む歴史的転換点となりました。

宣教師ルイス・フロイスは、信長のことを「戦運が己に背いても心気広闊」と評価しています。つまり、いくら戦況が悪くとも、明るくプラス思考で物事を考えられる人物だったようなのです。

その最も良い結果を生みだした戦が、東海道に勢力を張っていた今川義元を倒した「桶狭間の戦い」です。織田軍3千~5千に対し、今川軍は2万5千から4万5千だったと言われ、10倍近い敵を相手にした敗戦確実な戦を、大逆転で制した成果はまさに歴史的転換点となりました。

1560年6月5日、今川義元は2万5千を超える大軍で、織田信長の領地・尾張(おわり、現在の愛知県)を目指して、駿河(するが、現在の静岡県中部)を出発しました。この頃、対する織田信長方では、清須城で迎え撃つか出撃するかで喧々諤々の議論が交わされていたのです。

12日3時頃になって義元は、松平元康(のちの徳川家康)と家臣・朝比奈泰朝に、織田方の丸根・鷲津の2砦を攻撃させます。敵方攻撃の知らせを受けた信長は、頑として動かなかった前日の対応から一転、翌早朝4時頃に清須城から出立しました。

熱田神宮で戦勝祈願を終えた信長は、丸根砦に佐久間森重、鷲津砦に織田秀敏・飯尾定宗と尚清の親子、善照寺砦に佐久間信盛と信辰の兄弟、丹下砦に水野忠光、中島砦に梶川高秀と一秀の兄弟を配置しました。信長の本隊は10時頃に善照寺砦に入り、2~3千の軍勢を整えたのです。

第一戦は今川方の元康隊による丸根砦の攻撃で、守りの森重隊は5百少しの兵で迎え撃つのです。結果、森重は討ち死にし、鷲津砦でも秀敏・定宗が討ち死にし、尚清は敗走の憂き目に遭いました。

自軍の状勢不利と判断した信長は、善照寺砦に信盛以下5百余の兵を残し、自身は2千の兵を駆って出撃します。敵は東南の桶狭間(おけはざま、現在の名古屋市緑区と豊明市にまたがる地域)方面にいると見て、11時~正午頃に出発したのでした。

正午頃、信長出陣の吉報を得た中島砦の前衛佐々正次と千秋四郎などの兵30余名は、俄然士気が高まり単独での攻撃に打って出ます。しかし、敵方の逆襲は強烈で、善戦むなしくついには二人共々討ち取られてしまいました。

戦況が更に信長軍に不利になっていく中、13時頃には一寸先も見えないほどの激烈な雨が降り出しました。普通であればその状況での戦いは、双方の軍に不利ではあるだけでなく、小さい勢力の軍にはより不利になると考えられます。

しかしここで信長は、小勢力の自軍の不利のことは考えず、敵方の不利を好機と考え、義元本隊への攻撃を決断しました。敵本隊は5~6千ほど、自軍2千で引けをとるほどの軍勢では無いの考えもあったのでしょう。

豪雨の中勢力の差は感じられず乱戦となるものの、最終的には義元は3百の騎馬兵と共に逃げ出します。迫る信長本隊の服部一忠が一番槍を義元に加えるも返り討ちとなり、最後には毛利良勝によって討ち取られてしまいました。

この戦いの結果、駿河で留守を守っていた義元の嫡男で今川家当主の氏真には、お家の勢力を維持することはできず、9年後には大名としての地位を追われ、大名・今川家の滅亡を招いてしまったのです。

信長はというと、この戦いの勝利を機に天下人への道を着実に進み、1573年将軍・足利義昭を追放することによって室町幕府を崩壊させ、天下人としての地位を確立したのでした。

聖書に書かれていないことは認めない!ルターの信念と宗教改革

断固として「聖書に書かれていないことは認めない!」という信念を貫いたマルティン・ルター(1483年11月10日~1546年2月18日)の転機は、ロースクールに入学した年にやってきました。雷に恐れをなした彼は修道士になるという聖アンナへの誓い、そのことがプロテスタント教会誕生へと繋がる宗教改革へと向かっていくのです。

マルティンの父は、彼がエリート・コースを進むことを望んでいました。その父の願いどおり、法律家を目指して大学に進み、哲学を学び優秀な成績を収めています。

1505年のある日のこと、マルティンは草原で激しい雷雨に遭遇します。雷に撃たれて死んでしまうのではないかと恐れをなした彼は、思わず聖母マリアの母である聖アンナに、修道士になることと引き換えに助けを求めます。

どうにか落雷の被害をまぬかれたマルティンは、聖アンナへの誓いを実行に移すべく、父や母の反対を押し切って、聖アウグスチノ修道会へと入りました。彼が真に神を信じ敬うこととなった、彼にとってもカトリック教会にとっても歴史的転換点となった時です。

元々大学でも優秀であったマルティンは、修道会でもその才能を開花し、たった1年で司祭の叙階をうけることとなります。しかし、彼自身はいくら神に祈っても平安な気持ちになれない己を自覚し、修道士としての道を諦め、神学を極めることに方向転換するのでした。

彼は、いくら修道士のように禁欲的な生活をしようと、山ほどの善い行いをしても、決して自分は正しいのだということはできないと感じていたのです。そして辿り着いた結論が、神の恵みによって人は正しくいることができるというもので、やっと心の平安を得ることができたのです。

1515年、キリスト教の最高位でカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇、レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂を建築するため、贖宥状(しょくゆうじょう)という罪の償いを軽減する証明書を発売します。一般には罪を免除するという意味で、免罪符とも呼ばれています。

免罪符の販売は、ヨーロッパ内では特にマルティンの住むドイツが盛んで、マルティンにとっては絶対に見過ごすことのできないものでした。このような状況を打開するため、マルティンは1517年からカトリック教会のやり方を見直そうという宗教改革運動が始めたのです。

マルティンの発表した数々のカトリック教会に対する文書は、マルティンのカトリック教会からの破門という事態にまで発展します。レオ10世は、マルティンの唱える「41ヶ条のテーゼ」の撤回を求めたのです。

しかしマルティンは、レオ10世の立場を示す「回勅」と教会文書を市民の面前で焼き捨てるという行動に出ます。結局1521年、マルティンを破門にする回勅が出され、マルティンをカトリック教会の訣別は決定的なものとなりました。

1524年には、マルティンが1517年に発表した『95ヶ条の論題』というカトリック教会の免償理解を疑う文章などに触発され、ドイツ南部と中部において「農民戦争」が勃発します。結果は反乱の鎮圧に終わり、首謀者トマス・ミュンツァーは拷問のうえ処刑、10万人もの農民が亡くなりました。

1529年、マルティンの主張に賛同するルター派が、神聖ローマ帝国皇帝カール5世へ宗教改革を求める「抗議書」を送り、「抗議者(プロテスタント)」と呼ばれるようになります。キリスト教にカトリックし対して、プロテスタントが生まれた瞬間です。

1555年、30年に及ぶ内乱の末、プロテスタントの地位が保証されることとなり、既に亡くなっていたマルティンの信念が成就したのでした。

ジンギスカンは敵の撃滅を快楽としてモンゴル帝国の基盤を築いた!

『モンゴル帝国史』によれば、帝国の創始者ジンギスカン(1162年5月31日~1227年8月25日)は、男としての最大の快楽は敵を撃滅することだと部下に語ったとしています。こんな彼の考え方がその行動にも表われ、ついにはモンゴル帝国の基盤を築くという大きな事績を残すことになるのです。

モンゴル高原北東部の部族キヤト氏の首長のひとりだったイェスゲイの長男として生まれたテムジン(ジンギスカン)は、父の急死によって配下の民から見放され、母ホエルンのもと苦しい子供時代を過ごします。一時期は、対立する部族タイチウト氏に捕らわれたりもしますが、そこの隷属民の助けで逃げ出したりもしていました。

成人したテムジンにも、辛い試練は続きます。宿敵メルキト部族連合の王トクトア・ベキが幕営を襲い、夫人ボルテを奪われてしまうのです。

この時は、父の同盟者だったケレイトのトグリル・カンや、ジャジラト氏の盟友ジャムカなどの助けもあって、ボルテの奪還に成功しています。このような苦難の中で徐々に仲間を増やしていったテムジンは、戦いの先陣を切る「四狗」4人と、敵を震え上がらせる「四駿」という4人の重臣を手にしました。

1190年ころのこと、十三翼の戦いにおいて、テムジンは盟友ジャムカとの戦闘に突入してしまいます。テムジンの勢力はジャムカのそれに劣り、結果は敗北との見方が大半で、テムジン方に寝返った捕虜たちは釜茹での刑になるという残酷な末路でした。

1195年からテムジンは、キヤト氏の統一、メルキト部の遠征、アルタイ山脈方面のナイマンの討伐、タイチウト氏・ジャムカのジャジラト氏・大興安嶺方面のタタルの撃破と快進撃を続けます。面白いように敵を撃滅して行くテムジンは、きっと快楽の絶頂にあったことでしょう。

1201年には、宿敵となていたジャムカを盟主とした東方諸部族同盟の情報を得て、逆襲の末彼らを服属させることに成功しています。そして、翌年にはモンゴル高原中央部の掌握が完成したのでした。

1205年、最後の敵対勢力の西方のナイマンと北方のメルキトを撃破したテムジンは、その盟主でかつての盟友ジャムカを処刑します。そして、南方のオングトも服属することを認め、モンゴル高原全域を支配することとなりました。

1206年2月、テムジンはクリルタイ(モンゴルの最高意志決定機関)を開催し、大ハーンとしてモンゴル帝国を建国したのです。この時イェスゲイ一族の家老の息子であるシャーマン(巫者)が、テムジンにジンギスカンという尊称を奉りました。

敵を打ち破ることに快楽を感じるジンギスカンは、戦いを休むということを知らないかのように、モンゴル高原を超えて征服事業を続けます。1211年には中国北半を支配した女真族の金王朝、1215年ころには中央アジアの西遼とそこに逃げ込んでいたナイマンのクチュルク、1218年にはホラズム・シャー朝の征服事業を開始しました。

モンゴル帝国によって滅ぼされた国は、ジンギスカンによってナイマン王国・西遼・西夏の3国、その後のホラズム・シャー朝にはじまり大真国・金・ルーシ大公国・大理国・アッバース朝・南宋の7国にも上ります。

現在のモンゴルでは、ジンギスカンを建国の英雄とする見方が強いところですが、社会主義時代のモンゴルにおいては侵略者だという考え方もありました。敵の撃滅に快楽を感じるジンギスカンは、征服される国々にとっては不幸をまき散らす悪役であり、世の中を見出す反面教師でもあったのです。

頼朝は「戦下手」でも政治的手腕で鎌倉幕府を誕生させた!

源頼朝(みなもとのよりとも)は、日本で最初に武家政権を開いた人物として有名です。武士による政権ということから、いかにも戦闘には強いと思われがちですが、実は大変な「戦下手」だったのです。

彼が第一線に立った戦いでは敗けを喫し、戦闘の指示に専念してからは勝利を手に入れるようになりました。その戦の指揮能力が幸いしたのか、政権を運営する上で重要となる政治的手腕に生かされ、ついには鎌倉幕府を確立させたのでした。

1159年、13才となった頼朝は父・義朝(よしとも)らと共に平治の乱に参戦します。結果は惨憺たる敗北で、父は恩賞目当ての長田忠致(おさだただむね)の騙し討ちに遭い、長兄・義平(よしひら)は捕まって処刑、次兄・朝長(ともなが)は戦での負傷が元で死亡、頼朝自身は伊豆へ流刑となったのです。

それからの伊豆での長い長い流人生活は、頼朝に多くの人生修行の場となったことでしょう。世の中の情勢が変わったのは、1180年の以仁王(もちひとおう)による平家追討の令旨の発布でした。

石橋山の戦いでは、頼朝軍3百少しの騎馬に対し、平氏方の大庭景親(おおばかげちか)軍3千余騎と対峙します。しかし、以仁王の令旨と援軍を頼みとしていた頼朝の読みは外れ、大庭軍の背後から迫っていた援軍が途中の酒匂川(さかわがわ)が増水して足止めされてしまいました。

戦いの結果は、明かな戦力の差をもって、頼朝軍の敗北となり、安房(あわ)へと落ちて行くしかなかったのです。しかし、しだいに東国武士が集まり始め、鎌倉へと入るまでに再起することができました。

富士川の戦いでは、再起した頼朝軍4万騎、対する平維盛(たいらのこれもり)軍2千騎と、石橋山の時とは完全に逆転しています。維盛軍は水鳥の飛び立つ音に恐れをなして総崩れとなり、頼朝が戦わなくとも戦に勝てるという事例を作りました。

金砂城の戦いでは、富士川から逃げる平氏軍を負おうとした頼朝を、上総広常(かずさひろつね)・千葉常胤(ちばつねたね)・三浦義澄(みうらよしずみ)らが意見し、常陸(ひたち)の佐武氏討伐に向かわせました。頼朝は自身の武威を示すのではなく、自軍の将の意見も良く聞いたのです。

戦いの結果は、広常の策略に始まり、熊谷直実(くまがいなおざね)や平山季重(ひらやますえしげ)などの活躍によって勝利し、敵将・佐竹秀義(さたけひでよし)は奥州(おうしゅう)へと逃げていきました。

この戦いは、その成立する関東をベースとした頼朝の政権を作り上げるための歴史的転換点であり、頼朝が自軍の将の意見を取り入れた選択は正しかったと言えます。このあと頼朝は、鎌倉を関東武士団統率の拠点として、関東の平定と経営に力を傾けていくのです。

1181年は、横田河原の戦いで源氏方の木曽義仲(きそよしなか)が勝利、墨俣川の戦いでは平氏方の平重衡(たいらのしげひら)が勝利と一進一退の状況で推移します。しかし、翌1182年には養和の飢饉が発生し、源平の戦いは一時影を潜めるのでした。

1183年になると、頼朝の政権に加わっていなかった叔父・志田義広(しだよしひろ)が鎌倉を攻めてきます。この野木宮合戦では、頼朝は戦いの指揮を小山朝政に任せ、自身は鶴岡八幡宮で戦いが静まることを祈っていました。

頼朝が源平合戦の最前線には出ない状況の中で、源氏軍は平氏軍を撃滅し続けます。そして、宇治川の戦い・粟津の戦い・一ノ谷の戦い・藤戸の戦い・屋島の戦い・壇ノ浦の戦いで勝利した源氏軍は、ついに平氏を滅亡に追いやるのです。

こうして、頼朝は鎌倉幕府の誕生に向かって行ったのでした。

カール大帝は神を信じ平和を望んでフランク王国を最盛させた!

カール大帝は、神を信じて平和を望む人物でした。彼のこの姿勢が、フランク王国(現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリア及びスロベニア)の最盛期を現出させたのでした。

741年10月22日、西ヨーロッパへのイスラム教徒の侵入を食い止めた英雄カール・マルテルが亡くなりました。彼はメロビング朝(481~751年)フランク王国(481~987年)の宮宰(きゅうさい、宮廷職の首位)でしたが、この死によってその権力はカールマンとピピンの兄弟に引き継がれたのです。

742年4月2日、ピピンに長男カールが生まれます。出生地はエルスタル(現在のベルギーの自治体)というのが有力ですが、あまりはっきりとはしていません。

751年6月28日、カールの弟カールマンが生まれます。後に成人した二人の男子でフランク王国(481~987年)を分割相続することとなるのです。

この年、ピピンは主君キテデリク3世(在位:743~751年)を廃位し、ピピン3世(在位:751~768年)としてカロリング朝(751~840年)を開きます。これはフランク族の貴族たちから選出されての即位で、ソワソン(現在のフランスの都市)で王権を認める塗油が行われました。

754年、ローマ教皇ステファヌス3世がサン=ドニ大聖堂(現在のフランスのパリ北側の郊外にあった教会)に塗油に訪れます。ピピン3世は息子たちにも塗油を希望し、これを果たします。

後にカールは、自分の務めが聖なるキリスト教会を作ることにあると発言しています。塗油によって王権の後継者であることを認められた彼は、その時から神を信じるようになっていったのでしょう。

また彼は、神を喜ばせるには平和が無くてはならないというようなことも言っています。この神を信じて平和を望むという姿勢が、彼の人生の中での数々の選択の時の判断材料となっていたことは、容易に想像できます。

768年9月28日、ピピン3世が亡くなると、カールはカール1世(在位:768~814年)、弟カールマンはカールマン1世(在位:768~771年)として、王国を2分して共同統治を始めます。しかし、二人の仲はあまり良好といえるものではなかったのでした。

771年12月4日、カールマン1世が亡くなると、身の危険を感じたのかその妻と幼子はランゴバルド王国(568~774年)へと亡命してしまいます。このことによって、カール1世はフランク王国全土を一人で統治することとなり、内憂を払拭した彼の外征と西ヨーロッパ世界の政治的統一が始まるのです。

772年、カール1世は、ザクセン人(現在の北ドイツ低地に形成された部族)とのザクセン戦争(772~804年)に突入します。

782年、キリスト教秩序を尊重しない者は死罪と定めた制定され、これに則ってかカール1世はザクセン人の捕虜4千5百人を虐殺的に処刑しました。

797年、この法律は改訂され、死刑が罰金刑となります。長引くザクセン戦争での敵方の懐柔政策に入ったものでしょう。

804年、ようやくザクセン人の完全征服が成り、現在のドイツの領域はほとんどフランク王国のものとなりました。

長期戦の終盤(800年12月25日)で戴冠を行なったカール1世は晴れて「大帝」となり、ザクセン戦争後はヨローッパのキリスト教文明を成立に大きな影響をもたらしたのです。カール大帝の神を信じて平和を望む姿勢による選択の結果が、フランク王国の最盛期を迎えた瞬間でした。

卑弥呼は女王への擁立を決断して邪馬台国で倭国を統一した!

卑弥呼(ひみこ)は内戦で乱れている倭国(わこく、日本)を立て直すため、女王への擁立の要請を受け入れることを決断しました。彼女の統治する邪馬台国は、この決断によって倭国全体の統一を成し遂げることができたのでした。

卑弥呼のことが書かれた特に有名な歴史書は『三国志』で、この通称『魏志倭人伝』と呼ばれる部分にかなり長めに記録されています。この書は、280年から297年の間に陳寿(ちんじゅ、233年~297年)という、蜀漢(しょくかん、221~263年)と西晋(せいしん、265~316年)の二つの中国王朝に仕えた官僚によって書かれました。

また、范曄(はんよう、398年~445年)が編んだ、歴史書『後漢書』の中の『東夷伝』という部分にも卑弥呼のことが書かれています。この書では、後漢の二人の皇帝、桓帝(かんてい)と霊帝(れいてい)の治世(146~189年)に、倭国大乱という日本国内での争乱があったというのです。

卑弥呼の生まれた時期は不明で、亡くなったのは247年から248年の間頃と考えられています。倭国大乱に際して初めて卑弥呼が歴史上に姿を現わし、乱れた倭国の統一にその力を発揮したのでした。

『後漢書』に先立って書かれた前漢(ぜんかん)時代のことが書かれた歴史書『漢書』には、倭国には百余りもの国(政治集団)があったとあり、倭国大乱の時にはこれらの小国が離合集散しながら争ったのでしょう。卑弥呼がいたのは、それら小国のうちの、邪馬台国(やまたいこく)というところでした。

争乱が起こるまで倭国では70~80年もの間、平和裏に男王が統一支配をしていました。しかし、小国同士の諍いが表面化し全国にまたがる争乱に発展すると、倭国全体を支配できる者が不在となってしまいます。

小国各国が倭国統一を目指して争う中、邪馬台国でも倭国統一事業に乗り出します。そして、邪馬台国において鬼道(きどう)という人心掌握術を得意としていた女性・卑弥呼の擁立を画策するのです。

邪馬台国内の実力者であったと思われる卑弥呼の弟は、自分が倭国の実権を握るため、姉に対して倭国王への就任を強く要請したことでしょう。大乱時にはすでに高齢であり、夫もいなかった卑弥呼には、頼れるものは身内では最も近しい弟の願いには、ずいぶんと悩んだことと考えられます。

結局、卑弥呼自身はこれまでどおり鬼道に専念し、政権の実務は弟が行うという形で、倭国女王という大任を受け入れる決断をします。こうして、邪馬台国は倭国統一に向けて、他の小国との同盟と戦いへと向かったのでした。

238年12月、倭国統一を目指す邪馬台国の卑弥呼は、当時の中国華北を支配した魏(ぎ、220~265年)から、「親魏倭王」として倭国の王であることが認められました。この時までに、ほとんどの小国が邪馬台国を中心とした連合国家を形成していたのでしょう。

邪馬台国の南には、長らく敵対していた狗奴国(くなこく)がありました。この国には、卑弥弓呼(ひみここ)という男王がいましたが、247年にも邪馬台国との紛争を起こしています。

この紛争の最中、卑弥呼は亡くなってしまい、後を継いだ男王の元では再び千人以上もの犠牲者が出る争乱が起こりました。そこで、卑弥呼の一族の中から台与(とよ)という少女が女王として擁立され、ようやく争乱は収まったといいます。

連合国家の女王となるかどうかの選択の時、自分や一族のこと思ったか人民のことを思ったかは定かではありませんが、卑弥呼の決断は確実に倭国を平和に導く結果となったのでした。

ハンムラビ王は苦渋の隣国臣従に耐えてバビロニア帝国を築いた!

当初は弱小の都市国家であったバビロンのハンムラビ王は、北方の隣国アッシリアに臣従するという苦渋の選択をし、その地位の境遇に耐えました。やがて、その選択が功を奏し、着々と周辺国を征服し、ついにはバビロニア帝国を築きあげることができたのです。

ハンムラビは、前1810年頃にメソポタミア(現在のイラクの一部)地方にあった、バビロンという小さな都市国家に生まれました。父のバビロン第5代王シン・ムバリト(在位:前1812年~前1793年)までの時代は、周辺の強国からの侵入を警戒し続けなければならない、とても不安定な時期だったのです。

バビロン第6代王となったハンムラビには、アッシリア・イシン・ラルサ・マリなどの周辺大国の脅威が迫っていました。

アッシリアは、バビロンの北北西に位置するメソポタミア北部を支配する大国でした。ハンムラビ王治世(前1792年頃~前1750年頃)にアッシリア王だったのは、シャムシ・アダド1世(在位:前1813年~前1781年)とイシュメ・ダガン1世(在位:前1780年~前1741年)の二人です。

ハンムラビの先代から、バビロンとアッシリアは同盟を結んでいましたが、その実態は弱小国家バビロンが強大国家アッシリアに臣従するというものでした。バビロン王となったハンムラビは、この臣従という形の同盟関係を苦渋の気持ちで選択し、その境遇に耐えながら次第に力を付けていったのです。

イシンは、バビロンの南東に位置する都市国家でした。前20世紀前半まではメソポタミア南部で最も大きい王国でしたが、第5代王リピト・イシュタル(在位:前1934年~前1924年)の時代にラルサが独立した頃から、このラルサと北西にあったバビロンからの圧力で弱体化して行ったのでした。

ハンムラビの治世にイシン王だったのは、第10代エンリル・バニ(在位:前1798年~前1775年)から第15代ダミク・イリシュ(在位:1752年~1730年)までの6人です。

ラルサは、イシンの南東に位置する都市国家でした。前2千年紀の初めころには、メソポタミアの覇権を手に入れようとするほどの勢力でしたが、前1784年頃までに最後の王リム・シン1世(在位:前1822年~前1763年)は、ハンムラビによってイシンを奪われてしまうのです。

そして、ハンムラビの治世に最後のラルサ王だったリム・シン1世の後、ハンムラビの死までバビロンの支配は続くのでした。

マリは、トルコ北東部からシリアを通過しイラクでチグリス川と合流するユーフラテス川中流の西岸、バビロンの北西に位置する都市国家でした。前2900年頃から繁栄していましたが、前1759年にハンムラビによって破壊されてしまいます。

ハンムラビ治世にマリ王だったのは、ヤスマフ・アダド(在位:前1796年頃~前1776年頃)とジムリ・リム(在位:前1775年頃~前1759年頃)の二人です。元々このマリ王国と同盟を結んでいたバビロンでしたが、それまでの強敵ラルサを滅ぼしたハンムラビは、前1761年に同盟を反故にして攻撃をしかけたのでした。

前1757年頃、アッシリアへの臣従に耐えながら力を付けてきたハンムラビは、満を持してアッシリアへの出兵を決行します。そしての征服に成功し、メソポタミア地方を統一を果たすのでした。

これにとって統一されたメソポタミア南部のシュメールとアッカドの二地域は、バビロニアという新しい名前を持つようになります。ここにバビロニア帝国が誕生するのでした。

下手に強者に挑まず、少しずつ力を付けて、やがてトップに上り詰めるという生き方の見本と言えます。

copyright © life-to-reconsider.com