Authorbluefish2017

【オルレアン包囲戦】大転換点としてのジャンヌ・ダルク最初の勝利

オルレアン包囲戦(1428年10月12日~1429年5月8日)は、イングランドとフランス・スコットランド連合が半年以上も対峙した、百年戦争(1337年11月1日~1453年10月19日)の大転換点となった戦いです。ここでジャンヌ・ダルク(1412年頃の1月6日~1431年5月30日)は、自身とフランスに最初の大勝利ともたらしました。

ジャンヌは、神聖ローマ帝国(現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部にあった国)とフランス王国の2国に仕えていたバル公領で生まれました。彼女の村ドンレミはフランス領に入っていて、ずっとフランス王家に忠誠をつくす気持ちの強いところだったのです。

ある時、10才かそこらになったジャンヌに「神の声」が聞こえるようになります。彼女は、人の魂を秤にかける天使ミカエルや、斬首で最期を迎えた聖カタリナ、それにキリスト教信仰の放棄を拒んで拷問を受けた聖マルガリタなどの姿に触れ、イングランドを追い払うようにとの使命を与えられたのでした。

神に召喚されたジャンヌは、フランスのために戦うことを決意し、16才の時(1428年?)にシノンというところにあった仮王宮への訪問を願い出ました。しかし、この時には、少女の思いはバカげたものと嘲られ、追い返されてしまいます。

1428年10月12日、フランス中部のオルレアンという都市でイングランド軍との戦いが始まります。長い長いオルレアン包囲戦の始まりでした。

この戦いは、更に長大な長さで続いているフランスとイングランド両王国による百年戦争の中の、最大の山場と言えるものです。戦いはフランス王国の王位継承問題に端を発し、イングランド王国に至ってはプランタジネットとランカスターの2王朝に跨って続けられたのでした。

10月17日、トゥーレル砦に対する砲撃が行われます。そして21日には、ブールバール(城壁上の通路)の攻撃がありましたが、フランス軍はあらゆる手を尽くしてこれを撃退しました。

すると、イングランド軍は攻撃を一旦休止して防塁を築き始めたのでした。これに対しフランス軍は、防塁の坑道支柱を焼打ちにして邪魔をするのです。

10月23日、成果をあげて砦に戻ったフランス軍でしたが、その次の日になって嵐が吹き荒れ、耐えられなくなったフランス軍は、チリジリになってイングランド軍の攻撃から逃げる羽目に陥ったのです。こうしてトゥーレル砦は陥落し、オルレアンは風前の灯火となりました。

こんな時、再び仮王宮への訪問を願い出たジャンヌは、オルレアンで行われるニシンの戦い(1429年2月12日)において、フランス軍が負けてしまうとの預言を行ないます。この預言は見事に的中し、ついにジャンヌは仮王宮への訪問を許可され、時の国王シャルル7世(在位:1422~1461年)に謁見するのでした。

神の声を聞いたというジャンヌの言動は、百年戦争をフランス王位継承問題から宗教戦争という姿に変えつつあり、シャルル7世には彼女が魔女と見なされる心配もあったのです。しかし、それ以上にジャンヌの聖性は、フランスを救う原動力と成り得たのでした。

1429年4月29日、オルレアンに到着したジャンヌは、初めのうちはフランス軍の作戦会議への参加は許されていませんでした。しかし、神を信じる彼女は、かまわずに作戦会議はもとより、戦いの中へと身を投じて行ったのです。

5月4日、ジャンヌ率いるフランス軍が攻撃を開始し、翌日には放棄されていた要塞を占拠、その翌日の作戦会議ではイングランド軍の追撃を主張します。結局、彼女の活躍によって戦いは、5月8日にフランス軍の大勝利に終わりました。

朱元璋は聖賢・豪傑・盗賊の姿を駆使して「明」を創始した!

朱元璋(しゅげんしょう、1328年10月21日~1398年6月24日)は、聖賢・豪傑・盗賊など様々な姿を見せながら、その能力を最大限に駆使して、モンゴル人による中国の征服王朝・元(げん、1271~1368年)を駆逐し、漢民族による統一王朝・明(みん、1368~1644年)を創始しました。

1328年、元の威信も衰えを見せている頃、華東東北部の貧しい農民・朱家に末っ子が生まれました。名を重八(じゅうはち)といい、その母が夢の中で仙人から赤い玉を貰って妊娠したと言い伝えられています。

世の中は政治が乱れているうえに、飢饉・凶作の連続によって、まさに断末魔の声を上げている時代です。重八の家族も飢えによって多くが亡くなり、彼は托鉢僧となって放浪するという生き方を選択し、試練の生活の中で興宗(こうそう)と名を変えたりしました。

1351年、白蓮教(びゃくれんきょう)の信者たちが元王朝に対して反乱を起こし、興宗が身を寄せていた寺が焼失してしまいます。乱を起こした白蓮教徒たちが目印でしていた紅い布から、紅巾の乱と呼ばれたこの戦いは、占いによって興宗の参加を促しました。

興宗は名を元璋とし、紅巾軍の武将・郭子興(かくしこう、1302~1355年)の部下となって手柄を上げ、その養女の婿に迎えられます。ちなみに、この養女が、元璋が明の初代皇帝となった時の馬皇后(ばこうごう)なのです。

元璋は貧しい農民の出身という境遇を利用し、敵方・元軍に徴兵された農民を味方にし、紅巾軍の拡大を行ないました。そして、同郷で農民出身の徐達(じょたつ、1332~1385年)や、盗賊の経験を持つ常遇春(じょうぐうしゅん、1330~1369年)、後に軍師を務める李善長(りぜんちょう、1314~1390年)を得るのです。

1355年、義父の子興が亡くなり、その軍は息子・天叙(てんじょ)と義理の弟・天祐(てんゆう)、それに元璋の3人に分割して譲られます。しかし、天叙と天祐が戦死したことにより、子興の軍は全て元璋のものとなるのです。

1356年、元璋は現在の南京を占領して応天府とし、長江下流においては最も大きな勢力のひとつとなります。この彼の勢いは各地に広まり、劉基(りゅうき、1311~1375年)や宋濂(そうれん、1310~1381年)といった名だたる人々が彼の下に集まって来たのでした。

1360年、長江上流に大漢国を立てていた陳友諒(ちんゆうりょう)が、応天府の目前まで迫ってきましたが、元璋はこれを撃退します。そして、1363年になって元璋軍と大漢軍の激突が再開され、友諒の戦士によって大漢国は滅ぼされました。

1364年元璋は呉王を名乗り、同じく呉王と称していた張士誠(ちょうしせい、1321~1367年)と激突することとなります。士誠の領土を着実に攻略して行った元璋は、1366年には白蓮教と決別、ついに1367年に士誠を討ち、淮南・江南(長江の北と南)を統一しました。

1368年、元璋は応天府で皇帝となり、国号を「大明」とし、明の建国を成し遂げます。これによって元は北へ逃げ出すこととなり、中国での統一王朝としての地位は失うのですが、更に追い打ちをかけられ、1387年までに明軍の北伐によってほとんど壊滅状態となったのでした。

足利尊氏は逆賊なのか英雄なのか?室町幕府創設に至るまでの選択

清和源氏の血を引く足利尊氏(あしかがたかうじ、1305年8月18日~1358年6月7日)には、後世の評価で対立するふたつの面があります。平氏政権とも言える北条得宗に牛耳られた鎌倉幕府を滅亡させた英雄の面と、正当な天皇を追い出した逆賊という面です。

彼が逆賊になってまで開いた室町幕府が生まれるまでの、いくつかの選択がありました。清和源氏の祖・源経基(みなもとのつねもと、961年没)から、室町幕府誕生までの歴史の流れを見ていきましょう。

経基は、武門最高栄誉職・鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)となり、その嫡男・満仲(みつなか、912~997年)もまた鎮守府将軍となり、多田源氏の祖とも言われています。そして、満仲の三男で河内源氏の祖・頼信(よりのぶ、968~1048年)と、その嫡男・頼義(よりよし、988~1075年)も鎮守府将軍となるのです。

頼義の長男・義家(よしいえ、1039~1106年)もまた鎮守府将軍となり、軍事活動において朝廷の事後承認を受けるなど、天皇をないがしろにする傾向が少し見られます。その子孫には、初の武家政権・鎌倉幕府を興した頼朝(よりとも)も出現しました。

義家の子・義国(よしくに、1091~1155年)は、乱暴狼藉をはたらくなどして、しだいに主流から外れていきます。その子・義康(よしやす、1127~1157年)が、足利氏の祖となるのです。

義康の子・義兼(よしかね、1154~1199年)は、早いうちから頼朝軍につき従い、鎌倉幕府の御家人となりました。そして、その三男・義氏(よしうじ、1189~1255年)もまた鎌倉幕府に仕え、その嫡男・泰氏(やすうじ、1216~1270年)は鎌倉将軍と北条得宗というふたつの主君を持ったのです。

泰氏の三男・頼氏(よりうじ、1240~1262年)、その子・家時(いえとき、1260~1284年)、その嫡男・貞氏(さだうじ、1273~1331年)と足利家は鎌倉将軍と北条得宗に仕えていきます。

貞氏の長男・高義(たかよし、1297~1317年)は、母に北条得宗・顕時(あきとき)の娘を持っていましたが、若くして亡くなってしまいます。そのため、上杉清子(うえすぎきよこ)を母に持つ、次男・尊氏と三男・直義(ただよし、1306~1352年)が表舞台に出てくることとなるのでした。

尊氏は最初、北条得宗・高時(たかとき、1304~1333年)から一字もらい、高氏と名乗っていました。つまり、本来は北条得宗に仕え、鎌倉幕府を支える立場にあったということなのです。

1333年に後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288~1339年)が鎌倉幕府追討の兵をあげると、幕府軍を率いていた高氏は幕府への反乱を宣言して、ついには滅亡させてしまうのです。こうして高氏は天皇を助けた英雄として、その名・尊治(たかはる)から一字貰い受け、尊氏となったのでした。

しかし、後醍醐天皇の建武の新政は独裁的で、尊氏ら武人にはほとんどメリットのあるものではなかったのです。そして、鎌倉にいた尊氏の弟・直義が鎌倉幕府残党の起こした中先代の乱が、尊氏に再び寝返りのきっかけを与えたのです。

直義を助けるため鎌倉に向かった尊氏は乱鎮圧後もそこに止まることとし、新たな武家政権の創設を画策しました。そして、京都の建武政権を倒し、新たに光明天皇(こうみょうてんのう、1322~1380年)を即位させるのです。

時の天皇にたてつき、別の天皇を擁立するという行為は、尊氏に逆賊という汚名を付けました。しかし、1336年に新しい武家政権・室町幕府ができて、京都は華やかな時代へと向かって行ったのです。

【平将門の乱】平将門の「新皇」と東国独立を目指した戦い

「平将門の乱」は平安時代の中ごろに起きた、承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)のひとつです。平将門(たいらのまさかど)はもうひとつの天皇とも言える「新皇」となって、東国の関東諸国を独立させるために、朝敵となりながらも戦いました。

898年、桓武(桓武)天皇の孫(或いは曾孫)・平高望(たいらのたかもち)は、息子の国香(くにか)・良兼(よしかね)・良将(よしまさ)を連れて、上総国(現在の千葉県中部)へ実質的長官である上総介(かずさのすけ)として、赴任して行きました。そして、任期満了後もその地に土着し、関東での平氏勢力の拡大に努めたのです。

国香と良兼は、常陸国(ほぼ現在の茨城県)の前の常陸大掾(ひたちだいじょう、三等官)・源護(みなもとのまもる)の娘らを、良将は県犬養春枝(あがたのいぬかいのはるえ)の娘を妻としました。このあたりから、国香・良兼派と良将派の諍いの芽が見え隠れしているようです。

下総国(しもうさのくに、現在の千葉・茨城・埼玉・東京に跨る地域)佐倉を領地とする良将が亡くなると、その息子・将門の苦難が始ります。なんと、伯父の国香と良兼らが、勝手に佐倉を分割して取り上げてしまったため、親族間の争いへと発展していったのです。

また、源護との争いも勃発し、上総・下総・常陸の関東諸国には、きな臭い争乱の嵐が吹き荒れ始めました。

935年、源護の長男・扶(たすく)が、弟の隆(たかし)や繁(しげる)と共に、将門を襲撃します。しかし、これを返り討ちにした将門は、その勢いをかって護の本拠地を逆襲し、そこにいた国香を焼死させてしまうのでした。

936年、一族の長となった良兼は、国香の嫡男・貞盛と共に軍を募り、上総国から将門攻撃に出発します。ところが、将門はこの軍に奇襲をかけ、下野国(しもつけのくに、現在の栃木県)の国衙(こくが、役所)まで追い詰めました。

ここで一気に国衙を攻め落とすこともできたのでしょうが、将門はあえて良兼に逃げ道を開けて、国衙との交渉によって自分の反撃が正しいことを認めさせるのでした。彼のこの選択は正しく、朝敵になることを避けられたのです。

937年、再び良兼が軍を編成して将門に攻撃を仕掛けてきます。良兼軍は将門の豊田領を荒らし回り、妻子までも捕らえてしまいますが、最後には将門の反撃に遭い、筑波山へと敗走し、勢力はその後衰退を辿り、二年後に良兼は病気で亡くなります。

940年、武蔵国(現在の東京・埼玉・神奈川の一部)に赴任した興世王(おきよおう)が国守との不和から将門を頼るようになり、常陸国で問題を起こした藤原玄明(ふじわらのはるあき)も身を寄せるようになります。そして、ついに常陸国府と将門の対立は頂点に達し、争乱に発展することとなったのです。

将門軍千人余りが国府軍三千を破った戦いによって、将門は完全に朝敵となってしまいます。情勢の流れのままに将門の選択は行われ、天皇と同じ立場として「新皇」を名乗り、関東全体を治めるため、岩井(現在の茨城県坂東市)に政庁を開設しました。

こうした中、雲隠れしていた貞盛が藤原秀郷(ふじわらのひでさと)と組んで、四千人の連合軍を編成していました。将門軍は五千に達していた兵らを返していたため、この時には千人ほどに縮小されています。

因縁の大決戦は、最初の内は矢の勢いが追い風に乗って、将門軍優勢に進みます。しかし、将門軍が一旦自陣へ引き返そうとした時、風向きが急に変わり、その勢いを駆った貞盛軍の攻撃で、将門はあえなく討ち取られてしまうのでした。

マホメットは大天使の啓示を受けた!こうしてイスラム教は宣教される

古代イスラエルの民族指導者モーセ、キリスト教を創始したイエス、彼らに次ぐ最高・最大の預言者マホメット(570年頃~632年6月8日)は、大天使ガブリエルの啓示を受けました。こうして、ユダヤ教からキリスト教、そしてイスラム教へと唯一神の宗教は引き継がれ、その宣教が行われていくのでした。

長く日本では西欧などの表記に従って、イスラム教の開祖をマホメットと呼んできました。これを、その出身部族クライシュ族の言語アラビア語に基づいて言えば、本名はムハンマド・イブン=アブドゥッラーフとなります。

マホメットは、父アブド・アッラーフが亡くなって数か月後に、アラビア半島のメッカに生まれます。幼くして母アーミナも亡くなってしまったため、マホメットは祖父アブドゥルムッタリブと叔父アブー・ターリブに守られて成長しました。

595年頃、同じ名門ハーシム家出身のハディージャ・ビント・フワイリド(555年?~619年)と結婚します。彼女は既に二人もの夫と死別していてマホメットよりも15才年上で、その遺産によって非常に富裕な生活が送れたことから、25才の彼は自由気ままに瞑想にふけることができたのでした。

カースィムとアブドゥッラーフいう2人の息子と、ザイナブ、ルカイヤ、ウンム・クルスームそれにファーティマという4人の娘も生まれ幸せそうでしたが、息子たちが成人せずに亡くなるという悲しい体験もしています。ちなみに、晩年になってエジプトのコプト人奴隷マーリヤとの間に生まれた息子イブラーヒームも早くに亡くなっています。

610年8月10日、40才になったマホメットが郊外のヒラー山の洞窟で、相変わらず瞑想をしていた時のこと、目の前に大天使ガブリエルが現われます。天使は、その当時アラビアで信仰されていた数多くの神々の中から、アッラーを唯一神としてその啓示(超越的存在による真理・知識・認識の開示)を授けたのでした。

アッラーの啓示を受けて困ったマホメットは、家に帰ってくるとそのことを妻ハディージャに話します。すると彼女は、迷わず彼を励まして、自分は従弟のキリスト教修道僧ワラカ・イブン・ナウファルに相談に行くのでした。

ハディージャの話を聞いたワラカは、マホメットがモーセやイエスと同じ預言者であることを確信します。そしてワラカは、マホメットに預言者としての自覚を持たせ、ハディージャはイスラム教最初の信者となりました。

その後もアッラーの啓示は下され、マホメットは妻に続きいとこのアリー、友人のアブー・バクルなど、近親者をイスラム教の信者としていきます。この宣教活動は、多神教の聖地でもあったメッカにおいては劣勢で、町の有力者からは強烈な迫害を受けたのです。

619年頃、最も熱狂的なイスラム教信者で、最大の保護者でもあった最愛の妻ハディージャが亡くなります。ここにきてメッカでの宣教に行き詰まりを覚え、マホメットは悩み続けました。

622年、ついに転機が訪れます。メッカの北にあるメディナの住民から部族間の調停を依頼されたマホメットは、これを好機とメッカを脱出し、宣教の拠点をメディナへと移します。

所謂、聖遷(ヒジュラ)と呼ばれるイスラム暦の紀元ともなり、イスラム教最大の出来事です。ヒジュラという言葉には、新しい人間関係を構築するという語感もあって、人生を見直す際にはかなり重要な要素となるのです。

聖徳太子は官僚たちに道徳を求めて「十七条憲法」を制定した!

聖徳太子(574年2月7日~622年4月8日)は、官僚や貴族たちに道徳的な行動を求めて、神道・儒教・仏教の思想に基づいた行政法「十七条憲法」を制定しました。これは、国際的に緊張する中で中央集権を確立するためには、どうしても避けては通れない選択の道だったのです。

「聖徳太子」とは、死後100年以上も経ってから呼ばれることになる尊称で、本当の名前は厩戸(うまやど)皇子といいます。「皇子」と称号が表わすとおり、彼の父は用明(ようめい)天皇で、れっきとした天皇の跡継ぎである皇太子という立場にあったのです。

厩戸は、日本最初の女性天皇・推古(すいこ)の下、時の権力者・蘇我馬子(そがのうまこ)と共に政権を担当しました。また、推古天皇の即位に伴って、厩戸は日本初の摂政(せっしょう)に就任し、天皇の政務を代行したのです。

この頃、中国大陸では隋(ずい)が南北を再統一して、まだ4年ほどしか経っていませんでした。しかし、それ以前の王朝による政権運営と、隋による内政改革には多くの優れた点があり、日本の政権にはとてもためになるものだったのです。

593年、厩戸建立の七大寺のひとつ、四天王寺の築造が開始されます。これは、仏教に関連して蘇我氏と対立していた物部氏との戦いの時に、その勝利にあたって建立すると誓ったものでした。

594年、推古天皇の名のもとに、仏教興隆の詔を発します。その翌年には、高句麗(こうくり、朝鮮半島北部の国)の僧侶・慧慈(えじ)が、隋についての情報を伝え、厩戸の興味をひくのでした。

そして600年、隋から技術・制度を学ぶため、初めての遣隋使が派遣されました。その成果もあって、603年には冠位十二階という、有能な人材を確保できる家柄に左右されない官僚の位階制度を作り上げます。

604年、厩戸は満を持して、官僚や貴族らが道徳的に行動する様、仏教思想を盛り込んだ「十七条憲法」を制定します。この行政法には仏教の他、中国及び東アジアの国々で大きな力を持つ儒教(じゅきょう)と、日本古来の宗教で天皇家とも密接に係わる神道(しんとう)の思想も含まれているのです。

その後も遣隋使は、607年に小野妹子(おののいもこ)ら、608年には2回、610年・614年に各1回と派遣を続けたのでした。このようにして、厩戸は隋から多くのことを学び続け、推古朝の政権を強化していったのです。

十七条憲法の第1条は、和が最も大切で争わないよう戒めています。そして第2条は仏・法理・僧侶を敬うよう要請し、第3条では天皇の命令には恭しくし、第4条では礼節を基本とし、第5条では私欲を捨て訴訟は厳正にし、第6条では勧善懲悪を良しとしているのです。

他に、任務のまじめな遂行と権限の乱用禁止、早朝から夕方遅くまで働くこと、誠実さが人道の根本、功績・過失を明確にして賞罰を行なうこと、天皇が唯一の君主であること、職務を理解すること、嫉妬しないこと、公務に専念すること、民の使役は時期を吟味すること、物事を一人で判断しないことなどが定められています。

十七条憲法の内容は、誰かを裁く法律というよりも、現代の国家公務員の倫理規定に近く、何百年も官僚組織の在り方を先取りしているものです。後世になって、厩戸は信仰の対象となり、聖徳太子と尊称されるようになったのでした。

イエスは悪魔の誘惑をはねのけた!そしてキリスト教は生まれる

ナザレ(現在のイスラエル北部地区の都市)のイエス(前2年~33年)は、大工のヨセフと聖霊によって身ごもった聖母マリアの間に生まれ、荒野での断食中に悪魔の誘惑を受けるものの、これをはねのけました。そして、キリスト教は生まれたのです。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の元になる人々の始祖アブラハムから、イサク→ヤコブ(ユダヤ人の祖)→ユダから10代→ダビデ→ソロモン→レハベアムから11代→ヨシヤ→エホヤキンから9代→エレアザル→マタン→ヤコブ→ヨセフと続きます。このヨセフは大工を生業として、ユダヤ教の律法に忠実に生きる男でした。

ヨセフがベツレヘム(現在のヨルダン川西岸地区中央の都市)にいる時のこと、夢の中に天使が現われ、マリアという女性と結婚するよう告げられます。そして、そのお告げに従い、彼はマリアと婚約しました。

ある日のこと、マリアの元にも天使ガブリエルが現われます。そして、天使はマリアに対して、聖霊によって彼女が妊娠することを告げるのでした。

このようにイエスは、天使のお告げで聖霊によって生まれたとされる伝説があり、生まれながらにして神に関わる運命を持った人だったのです。そして、生まれてすぐに苦難の始まりとして、ヘロデ大王による幼児殺害の命令が発せられました。

ヨセフは、マリアとイエスを連れベツレヘムを逃れ、天使のお告げに従ってエジプトへと向かいます。やがてヘロデ大王が亡くなると、またも天使のお告げによってナザレへと移り住んだのでした。

12才になったイエスは、ユダヤ人として成人になる準備のため、両親と共にエルサレムへの巡礼を行ないます。その帰りのこと、イエスがいなくなったことに気付いたヨセフたちがエルサレムの神殿に戻ると、イエスはそこでラビ(ユダヤ教の指導者)たちと語らい、その聡明さに感心されているところを見つけます。

マリアが心配していたことを話すと、イエスは自分は必ず「父」のところにいるのだと答えます。この時すでに、イエスは自分が神(=「父」)の子であると自覚していたのでした。

30才ほどに成長したイエスは、ヨルダン川で洗礼を施しているヨハネを紹介されます。ここで初めてイエスは洗礼を受け、原罪(アダムとイヴから受け継がれた罪)と自罪(生まれてから犯してきた罪)が許されることとなったのでした。

洗礼を終えたイエスを、聖霊が荒野へと誘います。荒野を歩き回ること40日間、まったく何も食べず空腹でいたイエスのところに、ついに悪魔が現れました。

悪魔は、イエスが神の子なのであれば、石をパンにしてみろと誘惑します。空腹は非常にこたえてはいたことでしょうが、イエスは人はパンだけで生きているのではないと拒絶しました。

次に悪魔は、高いところにイエスを連れて行って世界中を見せながら、全ての国を与えるので自分にひざまづけと言います。これに対してイエスは、神を拝み神のみに仕えよとあるとして、これも拒絶するのです。

イエスに何かを与えようとしてもうまくいかないことに気付いたのか、次に悪魔はイエスが本当に神の子であるのかを試すことにしました。まず、エルサレムの宮の上から飛び降りてみて、神の助けがあることを証明させようとするのです。

しかし、イエスは神を試してはならないとして、断固として悪魔の提案を受け付けることはありません。いろいろな誘惑を試した悪魔でしたが、これらのイエスの神の子としての強い信念に基づく選択に、やがて退散してしまったのです。

こうして荒野の試練を無事終えたイエスは、後にキリスト(救世主)と呼ばれることとなり、自らの教え(キリスト教)を広め始めるのでした。

始皇帝は少年時代に観察力を鍛えた!そのことが中国統一に繋がる

始皇帝(しこうてい、前259年~前210年9月10日)は、少年時代に敵地で死を逃れて潜伏するという経験から、非常に高い観察力を鍛えました。その経験が、中国史上初めての全土統一という快挙に繋がることとなったのです。

前259年の中国は、140年以上も「戦国時代」の真っただ中にありました。この時代の主要7ヶ国「戦国七雄」は、秦(しん、前778~前206年)・楚(そ、?~前223年)・斉(せい、前386~前221年)・燕(えん、前1100頃~前222年)・韓(かん、前403~前230年)・魏(ぎ、前403~前225年)・趙(ちょう、前403~前228年)です。

そんな時期、後の始皇帝である政(せい)は、後に秦の第30代君主・荘襄(そうじょう)王となる子楚(しそ)が人質となっていた趙で生まれました。子楚には20人を超える兄弟がいたうえ、正式な妃を母としていなかったため、ほとんど秦の君主となる可能性はなく、その子である政の立場も非常に危ういものだったのです。

前253年のこと、秦の昭襄(しょうじょう)王が趙との休戦協定を反故にして、人質になっている子楚や政の身の安全のことはまったく意に介せず、趙の首府・邯鄲(かんたん)を攻めます。すると、子楚は自身の処刑を免れるため、妻子を置いて逃げ出してしまったのでした。

残されたわずか6才の政は、母・趙姫(ちょうき)と共に逃亡します。この幼いころの命を賭けた潜伏生活の中で、政の研ぎ澄まされた観察力は磨きをかけていくこととなるのでした。

前250年、昭襄王が亡くなり、1年後に孝文(こうぶん)王が即位すると、子楚が太子となります。これによって、趙ではどうにか生き延びていた政と趙姫を、身分の安定した子楚のいる秦の首都・咸陽(かんよう)へと送り返しました。

この後政を取り巻く状況は、目まぐるしく動きます。孝文王は即位後わずか3日で亡くなり、父が荘襄(そうじょう)王として即位するものの、これまたわずか3年で亡くなってしまうのです。

結局、生まれた時にはほとんどありえなかった王位が、わずか13才の政の下に転がり込んできたのです。前247年、秦王となった政の快進撃は、ここから始まりました。

前241年、趙が楚・魏・韓・燕の諸国と連合して秦を攻めてきますが、なんなくこれを返り討ちとします。そして、前238年には、商人から成りあがって実権を握っていた呂不韋(りょふい)がなくなり、晴れて政の実質的な政権が確立します。

前230年、10万の秦軍に首都を落とされた韓が滅亡します。韓王・安は捕らえられ、4年後に処刑されました。

前228年、秦軍に首府を落とされた趙は事実上の滅亡を迎えます。韓王は一旦は逃亡するものの、後に捕らえられ流刑となりました。

前225年、政によって派遣された将軍・王賁(おうほん)によって、魏が滅亡します。魏の都に河の水を入れるという戦法で、陥落までに3ヶ月を要した戦いでした。

前223年、秦の将軍・王翦(おうせん)軍60万が、すでに衰退にむかっていた楚を攻め滅ぼします。そして翌年には、この王翦が燕の攻略にも成功し、燕は終焉を迎えるのでした。

前221年、今度は王賁が斉を攻略し、秦以外の「戦国七雄」の排除を完成させます。ここに中国は歴史上初めて統一され、政は皇帝として「始皇帝」を名乗り、封建体制を敷いていきました。

お釈迦さまは王子の身を捨て出家した!そして悟りを開き仏教が始まる

後世お釈迦さまと呼ばれることになるゴータマ・シッダールタ(前5世紀頃)は、コーサラ国(古代インドの王国)の属国シャーカ国の太子(王国の後継ぎ)でした。しかし、その身分を捨てるという選択をして出家し、悟りを開くことによって、仏教が始まることになるのです。

ある日のこと、シッダールタが住んでいた王城から郊外に行こうとして、東門から出たところ老人と会います。ここで、彼は人が老いていくことを目の当たりにするのです。

次に王城の南門から出かけようとすると病人に出遭い、西門から出ると死人に遭ってしまうのでした。生きているからこそ起こる苦悩に直面したシッダールタは、生・老・病・死の「四苦」を強く感じることになります。

そんな時、王城の北門から出かけると、今度は沙門(しゃもん、ジャイナ教の修行者)と運命的な出会いをするのです。沙門の姿は清らかで、まったく苦や汚れを感じさせず、シッダールタは自分も出家したいという思いに駆られるのでした。

シッダールタの人生で最大の選択は、29才の時にやってきました。長男のラーフラも生まれて王国の継承に心配が無くなったこともあったのか、ついにシッダールタは出家を実行に移すのです。

初めての師はバッカバ仙人で、生まれ変わりを目標としていました。ここでシッダールタは、いくら死んで天上界へ行っても、何れは輪廻(生まれ変わり)して再び苦のある生の世界に戻ってしまうことを悟るのです。

次に師事したのは、アーラーラ・カーラーマという思想家でした。この師の考える最高の悟りは「空無辺処(くうむへんしょ)」といって、何も無い無限空間で精神集中できることでしたが、これでは煩悩(ぼんのう、心身を乱す心の働き)を無くすことはできないとシッダールタは悟ります。

三番目の師は、ウッダカ・ラーマプッタという思想家でした。この師の考えも、「非想非非想処(ひそうひひそうしょ)」或いは「有頂天(うちょうてん)」という天上界の最高の天を得るだけで、シッダールタの求める本当の悟りに到達することはできませんでした。

師につくことは諦めたシッダールタは、自ら苦行を積むためウルヴェーラーの林に入ります。そして、6年もの月日を費やして、「息を止める」・「直射日光を浴びる」・「激しい肉体運動」・「減食」・「断食」などの修行を続けました。

しだいにやせ細っていくシッダールタが気力が回復するのを待って、菩提樹(インド原産のクワ科イチジク属の常緑高木)の下で瞑想していた時のこと、「悟りを得られなければ座を立たない」という彼の心を乱そうと、マーラ(魔神)が現われます。そして、魔神の妨害はしつこく、一日中続くのでした。

シッダールタの決意は固く、やがてマーラの妨害は退けられ、ここで真の悟りが開かれることとなります。悟りを開きブッダ(仏陀、目覚めた人)となったシッダールタは、その後21日間はいくつかの木の下で座ったまま過ごし、22日目から悟りを広めるかどうかを考えたのです。

ブッダは、自分が悟りを開いた法(仏教)を広めるかどうかを考え続け28日が経ちました。そして、出した結論は否で、世の人々に悟りを開くことは無理で、仏教を語ることは無駄と判断したのです。

するとそこに梵天(ぼんてん、仏教の守護神)が出現し、ブッダに仏教の布教を強請します。梵天の要請は3度にもおよび、結局ブッダは仏教を広めるために立ち上がったのでした。

【出エジプト】約束の地を目指したモーセの荒野放浪40年の選択

古代イスラエルの民族指導者モーセ(前16又は前13世紀)は、神が彼らヘブライ人(古代イスラエル人、ユダヤ人)に与えると約束した地カナンを目指す選択をしました。「出エジプト」と呼ばれるこの歴史的移住行は、彼の存命中には成し遂げられなかったものの、荒野を放浪すること40年の歳月を経て、ようやく約束の地へと導いたのです。

モーセはイスラエル人の祭司の一族であるレビ族で、エジプトに暮らす家族のもとに生まれました。父はアムラム、母は父の叔母のヨケベド、兄アロンと姉ミリアムの兄弟がいました。

彼が生まれた頃のこと、ファラオ(古代エジプトの君主の称号)はヘブライ人が増えていくことを疎ましく思っていました。そして、恐ろしいことにファラオは、ヘブライ人の男児を全て殺すよう命じたのです。

生まれて3ヶ月ほどは隠し育てられていたモーセでしたが、ついに隠し切れなくなる時が来ました。そこで、ヨケベドはモーセをパピルス(紙の語源になった植物)の箱舟に乗せ、ナイル川(アフリカ東北部を流れエジプトに河口を持つ世界最長級の川)の葦(あし)の中に隠すこととしたのです。

ミリアムが箱舟を様子を窺っていたところ、王女が川に水浴びにやって来ました。そして、神の思し召しか、モーセは王女に拾われ、命を永らえることとなるのです。

やがて成長したモーセは、自分と同じヘブライ人がエジプト人によって強制労働をさせられ、酷い仕打ちを受けている実情を目の当たりにします。そして、ヘブライ人を殴っていたエジプト人を、同様に殴って殺してしまうのでした。

この選択は人としては間違ったものと思われますが、その後の「出エジプト」という歴史的出来事へと繋がる大きな転換点となります。殺人が発覚し、ミディアン(アラビア半島)に逃亡したモーセは、ここで神からエジプトのイスラエル人を、約束の地(現在のパレスチナ周辺)へ導くよう命じられたのでした。

モーセはエジプトに戻り、ヘブライ人がエジプトを出ることをファラオに願い出ます。しかし、これをファラオは拒絶し、エジプトには「水を血に変える」・「カエル・ブヨ・アブ・イナゴを放つ」・「疫病を流行らせる」・「腫物を生じさせる」・「雹を降らせる」・「暗闇でエジプトを覆う」・「長子を皆殺しにする」という災厄が降りかかりました。

これによってファラオはヘブライ人がエジプトを出ることを認め、「出エジプト」は始まります。しかし、モーセ一行が出立すると、ヘブライ人を奴隷のように使っていたエジプト人の不満の声が巻き起こり、一転してファラオはヘブライ人を追うよう命じました。

エジプト軍が背後に迫る中、モーセたちは紅海(アフリカ東北部とアラビア半島とに挟まれた湾)に辿り着きます。海を渡る手段を持たない一行は、エジプトにいた方が良かったと言い出す者まで現われる始末でしたが、神を信じるモーセは杖を高く掲げ、海水を左右に分けて海底を歩いて渡るという奇跡を起こすのでした。

ヘブライ人に続いて海底を渡ろうとしたエジプト軍でしたが、神は彼らにはその力を貸してはくれません。左右に押し上げられていた海水は、一気に元に戻ってきて、エジプト軍をのみ込んでしまったのです。

モーセ一行のカナンを目指す放浪が3ヶ月目になった頃、ヘブライ人の不平も増えていました。そんな時、神はシナイ山でモーセに十戒(10の戒律)を与え、ヘブライ人と契約を交わすのです。

その後も荒野放浪続けられ40年の歳月が流れましたが、モーセはその地を目の前にしてそこに入ることを許されることなく120才で最期を迎えます。そして、一行は新たな指導者ヨシュアによって、カナンに入るのでした。

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