Authorbluefish2017

【イラン革命】パーレビ国王が推進した近代化・西欧化の末路

イラン革命(1977~1979年)は、イラン最後の王朝パーレビ朝・イラン帝国(1925~1979年)で起こった、民主主義とイスラム化を求める革命です。時の皇帝モハンマド・レザー・シャー(日本ではパーレビ国王、1919年10月26日~1980年7月27日)は、帝国の近代化と西欧化を推進しましたが、この革命で末路を迎えるのです。

1941年9月16日、初代パーレビ朝イラン皇帝・レザー・シャー(1878~1944年)は、息子モハンマドに譲位してモーリシャス島へと行ってしまいます。第二次世界大戦の最中に、中立国からナチス・ドイツ寄りとなったレザーに対し行われた、イギリスとソ連の連合軍によるイラン進駐から逃れるための亡命でした。

新皇帝モハンマドは、翌年1月になってイラン・イギリス・ソ連での三国間条約を結び、戦争での非軍事的援助の提供を行なうことにします。この条約には、休戦後6か月以内に連合軍はイランから撤退するとあったため、連合国側を信用はできないものの認めたものでした。

1943年9月、それまで中立を守っていたイランでしたが、ついにドイツに対して宣戦布告し、連合国としてどっぷりと大戦の渦中へと入って行きました。そして11月、首都テヘランにおいて、アメリカ大統領ルーズベルト・イギリス首相チャーチル・ソ連書記長スターリンによって会談が行われ、イランへの経済援助拡充が決まるのです。

1945年9月2日、第二次世界大戦が終わると、イギリス軍は条約に従って撤退するものの、ソ連軍は居座りを続け、イラン北西部にソ連の傀儡政権を樹立させるという有様でした。

1951年、首相のモハンマド・モサッデグ(1882~1967年)は石油国有化を推進してソ連との連携を志向します。この状況に、皇帝モハンマドは対立姿勢を取ったのです。

1953年、皇帝派の将軍ザーヘディー(1897~1963年)がクーデターを決行し、モサッデグ首相は失脚します。クーデターは、アメリカとイギリスの情報機関(CIAとMI6)の支援を受けたもので、パーレビ国王がソ連の影響を脱し、米英の西欧化へと軸足を向けているのが窺われます。

1960年代になると、皇帝は反体制運動の取り締まりを強化していき、秘密警察サヴァクを動かします。そして、経済の面においても政治的な安定を重視し、国民の政治参加を規制して独裁を肯定する、「開発独裁体制」を確立したのです。

1963年からはアメリカの経済援助を後ろ盾に、王命による「白色革命」として、土地改革・国営企業の民営化・労使間の利益分配・婦人参政権の確率・教育の振興・農村開発と、イスラムとも対立するような政策も含めた改革を推し進めたのです。

このようなパーレビ国王の独裁的改革は、イスラム教シーア派法学者たちを中心とした国民の反発を招き、デモやストライキで収拾の目途は立たなくなっていきました。そして、1979年1月16日に皇帝はエジプトへと亡命し、2月11日に反体制勢力の政権が誕生して「イラン革命」は成功するのです。

モハンマドの最期は、実に侘しいものでした。癌を治療するとしてアメリカに居た11月4日のこと、イランでは反発した学生たちによるアメリカ大使館人質事件が起き、モハンマドはアメリカを追われパナマへ、そしてエジプトで受け入れられるものの、翌年7月27日になって首都カイロで客死してしまいます。

【文化大革命】毛沢東が自らの思想であみ出した政策による大損害

文化大革命(1966年5月~1976年10月)は、毛沢東(もうたくとう、1893年12月26日~1976年9月9日)と林彪(りんぴょう、1907~1971年)及び四人組と呼ばれる人々が指導者となって行われました。この毛の思想からあみ出された政策は、中国に社会的騒乱を巻き起こし、大損害を与えました。

毛は、中国湖南省の村の地主の三男坊として生まれ、二人の兄が早くに亡くなったことから、実質長男として育てられました。一代で自力で成り上がった父は厳格な人で、毛は小さい頃から働かされ、勉強にも励まなければならないという生活だったのです。

彼の一回目の結婚は1907年、わずか14才で4つ年上の羅一秀(らいっしゅう、1889~1910年)を妻とします。しかし、彼女は赤痢に罹って、3年足らずで亡くなってしまいました。

その年の秋、村を後にした毛は高等小学校で、康有為(こうゆうい、1858~1927年)や梁啓超(りょうけいちょう、1873~1929年)などの、儒教・西欧思想・福沢諭吉・国家主義などの思想を学びます。

1911年の春、毛は更に勉学を続けるため中学への入学を目指していました。しかし、時の王朝・清(しん)打倒を目指す辛亥(しんがい)革命が起こり、毛は革命のための志願兵となります。

1912年2月12日に辛亥革命が成功し清が滅亡すると、毛は念願の中学に入学します。この時、「人間到る処青山あり(大望成就のためには何処でも活躍すべき)」という、日本の明治維新にも大きな影響を与えた僧・月性(げっしょう、1818~1858年)の詩「将東遊題壁」を父に送って、自分の意気込みを表わしました。

その後も毛の勉学は続き、アダム・スミス(イギリスの経済学者)やモンテスキュー(フランスの哲学者)などの著作から思想形成をしていくのです。そして1918年4月には、儒教批判・人道主義・文字改革・文学改革を主張とする新文化運動に触発されて、学生仲間と「新民学会」を創設、政治の世界へと入って行くのでした。

1920年、父の遺産で裕福で市販学校の校長でもある毛は、共産党の事務をしていた楊開慧(ようかいけい、1901~1930年)を結婚します。しかし、この二番目の妻は、共産党と争っている国民党軍によって殺されてしまうのです。

1921年7月23日、毛は共産党の第1回党大会に出席します。そして1923年6月の第3回党大会では中央執行委員会の委員となり、9月には湖南支部を組織するまでになりました。

毛の共産党と中国での出世は続き、1945年6月19日には初代の中国共産党・中央委員会主席に就任します。そして、1949年10月1日には、「中華人民共和国」の建国を宣言するのです。

この国の当初の目標は、新民主主義社会の建設でした。しかし1952年9月24日、突然に毛はソ連をモデルとした社会主義へと大きく舵を切って、他の指導者たちを困惑させてしまうのです。

1966年5月16日、北京大学で指導部を批判する壁新聞が張り出されたことによって、文化大革命は始まります。この時、国家主席の座を劉少奇(しゅうしょうき、1898~1969年)に奪われていた毛は、これを利用して反撃に出ました。

腹心の党副主席・林彪と四人組で指導体制を組んで、封建的文化・資本主義文化の批判と、新たな社会主義文化の創生を目指し、各地で民衆による教会・寺院の破壊や大量殺戮を助長したのです。

毛は、「道は自分で切り開くもの」と考えていたと言われますが、文化大革命での行動を見る限りではあまりそうは見えません。どこか、道の切り開き方に間違いがあったのではないでしょうか。

トルーマンは人類最悪の選択をした!日本への原子爆弾投下の顚末

アメリカの第33代大統領ハリー・S・トルーマン(1884年5月8日~1972年12月26日)は、人類史上最悪の選択をした人物と言えます。それは、日本への原子爆弾投下の決定で、史上初で最後(であって欲しい)の核兵器を実戦で使用させ、広島と長崎で12万9千から24万6千もの被害者を出したのです。

日本への原子爆弾投下の理由として、アメリカ政府の正式見解では、第二次世界大戦太平洋戦線における日本本土での戦闘を望まず、これを早くに終結させるためだったとしています。しかし、実際には沖縄戦を決行した上に、広島と長崎に落とした原爆の種類が違うことから実験を兼ねていたとも疑われるのです。

1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻によって、第二次世界大戦が始ります。

この年、アメリカに亡命してきたユダヤ人物理学者レオ・シラードたちが、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(1882~1945年)に信書を送ります。これは、ナチス・ドイツが核兵器を持つのではないかと憂慮して、アメリカでの核兵器開発を促すものでした。

1941年7月、ウラン型原爆の基本原理などがまとめられ、爆撃機に搭載できるとわかります。これを知ったルーズベルトは、10月になって原爆開発を決意したのです。

1942年10月、原子爆弾開発・製造のための「マンハッタン計画」が具体的に始動し、日本の悲劇に向かって進みだしました。

1943年4月、原爆開発のためにロスアラモス研究所が創設され、ユダヤ系物理学者ロバート・オッペンハイマー(1904~1967年)が開発責任者となります。

1944年9月18日、ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチル(1874~1965年)がニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原子爆弾投下などで合意を見ます。

1945年1月20日、ルーズベルト大統領第4期目にあたり、トルーマンが副大統領に就任します。2月にはサイパン島から8キロほど離れたテニアン島が原爆投下基地とされました。

4月12日、脳卒中で突然にルーズベルトが亡くなったことによって、トルーマンに大統領の座が回ってきます。4月30日、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(1889~1945年)が自殺し、翌月7日にはドイツの無条件降伏文書が調印されます。

5月18日、大統領職を引き継いだトルーマンは、日本への原爆投下路線を止めることなく、部隊をテニアン島へ移動させます。5月28日になると、初めに原爆開発を進言したシラードが、一転して原爆使用に反対を表明します。

7月16日、人類初の核実験「トリニティ実験」がプルトニウム型原爆で成功し、翌日シラードは大統領へ原爆使用反対の請願書を提出するのでした。

7月21日に実験成功の報を受けたトルーマンは、その残虐性を良く理解はしましたが、使用することの正当性についての思いは変わりませんでした。そして、人類史上最悪の選択、日本への原爆投下を指示したのです。

8月6日午前8時15分、広島にウラン型原子爆弾「リトルボーイ」が投下されます。構造が簡単で実験を必要としなかったこの爆弾による死者は、広島の推定人口35万人に対し、2~4ヶ月以内でその3~5割ほどに達しました。

8月9日午前11時2分、長崎にプルトリウム型原子爆弾「ファットマン」が投下されます。トリニティ実験で成功していたこの爆弾による死者は、長崎の推定人口24万人に対し、およそ3割に達しました。

トルーマン大統領の、人類史上最悪の選択の結果生まれた悲劇です。

【近江屋事件】討幕と維新を推し進めた幕末の志士・坂本龍馬の最期

「近江屋事件」とは、江戸時代の終末期に討幕と維新を推し進めた、”幕末の志士”坂本龍馬(1836年1月3日~1867年12月10日)の最期となった暗殺事件です。彼が、醤油屋「近江屋」は危険だとの助言を退け宿泊先として選択したのが、この被災の原因でした。

この事件では同郷の中岡慎太郎(1838~1867年)と元力士の山田藤吉(1848~1867年)も襲われ、難の二日以内に亡くなっています。暗殺者については確定されておらず、幕末の歴史では”超”の付く人気組織・新撰組というものもあれば、京都見廻組(幕臣による京都治安維持組織)という説も出ています。

1862年5月21日、京都の伏見の旅館・寺田屋において、討幕を目指す薩摩藩(現在の鹿児島と宮崎の南西部)の尊皇派志士たちを、藩主の父・島津久光が鎮圧させた戦闘で、「寺田屋事件」や「寺田屋騒動」と呼ばれています。

1866年3月9日にも、再び「寺田屋事件」が発生します。これはまた「寺田屋遭難」とも呼ばれ、龍馬が伏見奉行(町政・司法・行政など)によって暗殺されかけた襲撃です。

10月20日には、土佐藩(現在の高知県)の藩士8名が、三条大橋西詰に掲げられた「長州藩(現在の山口県東南と西部)朝敵(天皇・朝廷の敵)」との制札(触書き)を引き抜こうとして、新撰組によって襲撃・捕縛されてしまいます。「三条制札事件」と呼ばれる、幕府の権威失墜を表す出来事のひとつです。

二つに「寺田屋事件」が起こった寺田屋は、薩摩藩の定宿として幕府のブラックリストに載っていたのです。維新を推進するためここに宿泊していた龍馬は、自身の身にも危険を感じて、活動の拠点を三条河原町に近い材木商「鮓屋(すしや)」に移します。

更に1867年11月頃になると、龍馬は醤油屋「近江屋」を経営する豪家・井口新助から、宿泊先として母屋の二階を提供されます。このことについて、薩摩藩士で改革派の吉井友実(1828~1891年)は、近江屋の辺りはまだ危険なので、薩摩藩邸に入った方が良いと勧めます。

しかし龍馬は、土佐藩を脱藩して日本の維新を目指していたため、個別の一藩に寄り添うことはできないと考えたのでしょう。龍馬は、頑として吉井の助言を聞くことはありませんでした。

そして、近江屋事件は起こります。

1867年12月10日、夕方になって中岡が近江屋に龍馬を訪ねてきました。彼は、龍馬と三条制札事件について話し合うためにやって来たのです。

二人の会合が夜にまで及んだ頃のこと、十津川郷士を名乗る面会者が訪ねてきます。居合わせた元力士の山田藤吉が面会者を伴って二階の龍馬の部屋へ向かいますが、彼は背後から面会者たちによって切り付けられ、翌日には命を落としてしまうのです。

二階で会合中の龍馬は階下の騒ぎに対して、思わず土佐弁で「ほたえな(騒ぐな)!」と叫んでしまいます。この声で龍馬の居場所を知った面会者たちは、注意深く音を立てないようにして二階へ上り、龍馬たちの会合する部屋へと侵入してしまったのです。

この時中岡は、切られるものの辛うじて息があり、助けを求めて2日は生き延びます。一方、襲撃の一番の目標であったと思われる龍馬は、後頭部・背中・額と深手を負い、ほとんど即死だったと言います。

生前の龍馬の活動によって、討幕と明治維新は達成できたものの、この早すぎる死(享年31)が無ければ、もう少し温和な形での維新ができていたかもしれません。彼の近江屋を宿泊先にするという選択は、新しい日本を立ち上げる上では、非常に悔やまれるものと言えるのです。

ヴィクトリア女王は親独派だった!それでもヴィクトリア朝は繁栄する

イギリス帝国(1609~1931年)の栄光を象徴するヴィクトリア女王(1819年5月24日~1901年1月22日)は、その血筋のほとんどがドイツ人に繋がっていて、夫アルバートもドイツ出身、そして彼女は親独派だったのです。女王夫妻はドイツ偏重で、国益を無視しているとも言われましたが、ヴィクトリア朝は繁栄を極めたのです。

イギリスの中核イングランドがウェセックス王国によって927年に統一されてから、イギリス王朝はノルマン→プランタジネット→ランカスターとヨーク→テューダー→ステュアートと続いていきます。

ヴィクトリアは、この次のハノーヴァー朝(1714~1901年)の第6代目として即位し、その治世は特別に「ヴィクトリア朝」とも呼ばれました。ハノーヴァー朝の君主は、代々ドイツのハノーファー王国の君主が兼任していましたが、ハノーファー王国に女王は認められず、ヴィクトリアはイギリスのみの女王となったのです。

1837年6月20日、ヴィクトリアは即位したこの日の日記に、自分が若く未熟ではあるが正しいことをする善意・欲望は誰にも負けないという信念を綴っています。わずか18才のヴィクトリアではあったのですが、即位には母を同席させず、その後の家族に関係のない会見は全て一人でこなすという、かなり芯の強い女性でした。

イギリス国民にとってドイツ系のハノーヴァー王家はあまり好意は持てなかったようで、できればヴィクトリアにはイギリス人の夫を持ってもらい、王家の血統をもう少しイギリス系を濃くしたいという思いが強くありました。しかし、ヴィクトリアはドイツ系の夫を選択してしまいます。

1840年2月10日、ドイツのザクセンの公・ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバートと結婚したヴィクトリアは、夫を天使のようだと言い、ロンドン市内の沿道には数知れないほどの人々が集まっていたと感激しています。

女王としての決意に燃える彼女は、ただ結婚に浮かれていることはせず、新婚旅行をわずか42km先の近場ウィンザーにしています。アルバートが不満の声を漏らすと、ヴィクトリアは女王としての立場を述べて反論したと言います。

イギリスの君主として政務に励むヴィクトリアでしたが、やはりドイツ系の夫妻は、日常的にドイツ語を使っていることもあって、国民の好意を得てはいません。結婚した年の6月、二人の馬車が見物人の女によって狙撃されたのです。

間一髪、アルバートがヴィクトリアを馬車の中に引き倒して守り、二人は難を逃れることができました。この夫の行動は国民から称賛を受け、その後二人の行く先々では、歓迎の万歳が行われるようになったのです。

1870年7月19日、フランスとプロイセン王国(ドイツ北部・ポーランド西部の国)の間にルクセンブルクを巡る普仏戦争が勃発します。ヴィクトリアは首相や外相の消極姿勢に反してこの戦争に介入し、結果的にドイツ帝国の成立をさせてしまいました。

1888年6月15日、ヴィクトリアの孫がヴィルヘルム2世としてドイツ帝国の皇帝に即位します。彼は反自由主義者で、イギリス人である母ヴィクトリア(ヴィクトリア女王娘)を幽閉し、イギリス女王ヴィクトリアとの対立が始りました。

孫に対する女王の怒りが溶けるには、11年の歳月を要しました。ヴィクトリアの性格は直情径行にあり、ほとんど人の意見は聞かない、ある意味ワンマンな女性だったのです。

しかし、その短気な性格はイギリスにとっては良い方向にも効果を上げ、「ヴィクトリア朝」というイギリス帝国の大繁栄の一時代を築いたのでした。

【天保の改革】水野忠邦の出世欲に基づいた強硬な政策の失敗

「天保(てんぽう、1830~1843年)の改革」は、江戸時代の三大改革の内の最後のもので、幕府の財政再建のために行われました。しかし、これを行なった老中(ろうじゅう、臨時を除けば将軍に次ぐ役職)・水野忠邦(みずのただくに、1794年7月19日~1851年3月12日)の出世欲に基づいた強硬な政策は、失敗を招きました。

唐津藩(からつはん、現在の佐賀県唐津市に居城)の第3代藩主・忠光(ただみつ、1771~1814年)の次男として生まれた忠邦は、兄の早世によって1812年に家督を継ぐこととなります。

水野家は主君・徳川家と同じ清和源氏の流れで、忠邦の家系は2代目将軍・徳川秀忠の側近として仕えた忠元(ただもと、1576~1620年)に始まります。忠元は大阪の陣にも参加し、徳川幕府を初期の頃から支える家柄だったのです。

忠邦の父・忠光は、ほとんど成果は上がらなかったものの、自ら藩政の改革にあたった人でした。それが何の因果か忠邦にはそれよりも大きな幕政改革という仕事が回って来たのです。

忠邦には、幕府の中枢でのし上がっていきたいという非常に強い欲望がありました。そのためには手段を選ばず、賄賂を使うことは至極当然のことだったのです。

1816年、奏者番(そうじゃばん、城中の武家礼式の管理役)になった忠邦でしたが、そんな役職では満足できません。そして、家臣が反対するのも聞かず、昇進を阻んでいると考えた唐津藩25万3千石を手放して、浜松藩15万3千石への国替えを願い出たのでした。

国替えは成功しましたが、この時にも唐津藩の一部を幕府に差し出すという賄賂工作をした疑いが強く、その地域の人々には長く恨みを抱かれることとなりました。しかし、忠邦の思惑どおり幕府での昇進は寺社奉行へと確実に進み、不満を抱いていた家臣たちも鎮静化していったのです。

幕府内でその名を轟かせた忠邦の昇進の勢いは留まる所を知らず、1825年に大阪城代、翌年には京都所司代、そのまた2年後には西の丸老中となって、次期将軍候補・家慶の補佐役となったのでした。ここにきて、忠邦は出世の勢いは、幕府中枢の将軍に肉迫するまでになったのです。

1834年、幕府老中で沼津藩第9代藩主・水野忠成が亡くなると、忠邦は本丸老中に昇格します。そして1837年、将軍・家斉(いえなり)が家慶に職を譲り、忠邦の手腕が発揮される時期が到来したかに見えたのです。

しかし、大御所となった家斉の側近、水野忠篤・林忠英・美濃部茂育らの実権掌握のため、忠邦に活躍の場は与えられませんでした。忠邦には財政危機に陥っている幕政をどうにかしたいという思いがあったのですが、それはとても難しいことだったのです。

そして1839年、本丸老中になってから5年の歳月をかけて、忠邦はその最高位・老中首座にまで上り詰めます。更に1841年、家斉が亡くなると同時に、忠邦は家斉の側近を首にし、遠山景元(とおやまかげもと、遠山の金さんのモデル)を始めとした新たな人員を登用して、「天保の改革」へと取組んでいきました。

忠邦は、農村復興を目指す人返し令、奢侈禁止、風俗粛正、低物価政策としての株仲間の解散と、多くの改革政策を実施しました。しかし、幕府財政を補填しようと質の低い貨幣を作り過ぎが原因で物価は高騰、庶民の生活が苦しくなっていったのです。

こんな状況の中、あの「金さん」は政策緩和を図って人気者となり、腹心の部下が対立する老中・土井利位(どいとしつら)へと寝返ってしまいます。そうして、出世欲でのし上がってきた忠邦の改革は、1843年に彼の老中罷免をもって失敗に終わったのでした。

ナポレオンのナショナリズムはフランス帝国の成立と滅亡を招いた!

ナポレオン・ボナパルト(1769年8月15日~1821年5月5日)がフランス国民の心中に燃え上がらせたナショナリズム(国民主義)は、フランス帝国(1804~1814年)という軍事独裁国家を成立させました。しかし、非人道的なナポレオンの政権は、このナショナリズムの反感を買い、最後には滅亡を招いてしまうのです。

ナポレオンというと、芯からのフランス人でフランスを偉大な帝国にした英雄というイメージが大きいようです。ところが、彼の生れはイタリア半島の西方の海に浮かぶコルシカ島で、先祖はイタリア貴族で、元々の洗礼名はイタリア風にナブリオーネ・ブオナパルテでした。

彼が生まれる40年も前からコルシカ独立闘争が行われていて、父カルロはその指導者パスカル・パオリ(1725~1807年)の副官を務めていました。パオリはコルシカ民族主義によって闘争を続けていたのですが、カルロはナブリオーネが生まれる直前になって、フランスに寝返ってしまうのです。

1789年、フランス革命が勃発した時、ナブリオーネはフランスにいたものの、コルシカ民族主義者としてまったく革命に関心はありませんでした。これが1792年のこと、コルシカ独立闘争でフランス寄りとなったブオナバルテ家の、コルシカ島からの追放ということで一変するのです。

ブオナバルテ一家はフランスのマルセイユに逃げて、1794年頃には家名をフランス風にボナパルトと改めました。この時から、ブオナバルテもフランス風にボナパルトとなったにでした。

ナポレオンは、フランス軍人として生きていく決意をします。これと前後して1793年に起ったトゥーロン攻囲戦で、ナポレオンは革命側の共和派を勝利に導き、その名をフランス中に轟かせました。

1795年に王党派によるヴァンデミエールの反乱においては、副官に任命されたナポレオンは一般市民をも危険にさらす散弾を市街地で使い、その鎮圧に成功しています。この頃フランスでは、他国からの干渉で、1792年から始まったフランス革命戦争で、ヨーロッパ各国を巻き込む状況となっていました。

当初は国内での反乱などの混乱もあって、戦況が思わしくないフランスでした。しかし、革命を成功させたフランス国民の熱意は強く、積極的な戦争への参加によって、しだいに戦況を好転させていったのです。

フランス国民のナショナリズムによる機運の盛り上がりで、ナポレオン軍は最初に干渉してきたオーストリア軍に勝ち続けます。そして、1794年4月には首都ウィーンに肉迫、政府に無断で講和交渉を行なって、ついに10月には条約を締結し、フランスに対抗する対仏大同盟を解体させました。

1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに遠征で首都カイロに入るものの、海上ではフランスがイギリスに敗れてしまい、ナポレオン軍は孤立してしまいます。12月、追い打ちをかけるように、イギリスが主導して再び対仏大同盟が復活し、フランス本国に危機が訪れます。

年が明けて、ナポレオンは自国の危機を救うため、エジプトの自軍はそのままに、僅かな側近と共にフランスへと向かいます。帰国したナポレオンはフランス国民から歓喜で迎えられ、11月にはクーデターによって政府の実権を握りました。

その後のナポレオンの勢いは留まる所を知らず、1804年5月18日には皇帝に即位し、フランス帝国を成立させます。しかし、戦いを続けるナポレオンのフランスが敗戦を重ねていくに従って、国民の指示は離れていき、1814年4月4日帝国はナポレオンの退位によって滅亡したのです。

ピョートル1世は数々の手仕事を身に付けロシア帝国を成立させた!?

全ロシアのツァーリ(君主)で大帝とも呼ばれたピョートル1世(1672年6月9日~1725年2月8日)は、船大工や花火師など数々の手仕事を身に付け、自分は外科医や歯医者だと思っているとても手先の器用な皇帝でした。そして、革新的で西欧かぶれとも言えるピョートルだからこそ、ロシア帝国を成立させたのかもしれません。

1672年6月9日、全ロシアのツァーリのアレクセイ・ミハイロヴィチ(1629~1676年)の下に、一人の男の子が生まれました。後に、ロシア・ツァーリ国を帝国にまで成長させるピョートルの誕生です。

1676年2月8日、アレクセイが亡くなり、ピョートルの異母兄がフョードル3世(1661~1682年)として即位します。しかし、フョードルの治世はわずか6年、オスマン帝国(1299~1922年)との露土戦争(1676~1681年)などがあり、あまり成果もなく病没したのです。

1682年5月7日、ピョートルはもう一人の異母兄イヴァン(1666~1696年)を差し置いて、母ナタリア出身のナルイシキン家によってわずか10才でツァーリに祭り上げられます。これは、病弱で障害を持つイヴァンとその姉ソフィアの母出身のミロスラフスキー家に対抗したものでした。

ピョートルが即位してすぐに、ミロスラフスキー家の反撃が始ります。イヴァンの母方ではストレリツィの蜂起を煽り、王宮クレムリンを襲撃して、ナルイシキン家の有力者を殺害してしまいました。

これによって、異母兄がイヴァン5世として即位し、その姉ソフィアが摂政としてロシアの実権を握るのです。ピョートルはツァーリの座を追われ、共同統治者となるものの、王宮を出てモスクワ郊外へと移されたのでした。

それでもピョートルは、楽天的性格なのか特段めげることはありません。なんと、ピョートルは近くの外国人村に入りびたり外国人と仲良くなったり、遊びの軍隊を作って模擬的な戦争をしたりしていたのです。

1689年、ソフィアが失脚し流罪となると、ピョートルは政治をナルイシキン家に任せます。そして、自身は相変わらず仲間たちと遊びまわっていたのです。

1694年には母ナタリヤが、1696年にはイヴァン5世が相次いで亡くなり、ようやくピョートルの親政が始められます。しかし、まだまだ”現場”での活躍が楽しいのか、1695年に行われたドン川畔のアゾフへの遠征では、ピョートルは一砲兵下士官として参加しました。

1696年にもアゾフ遠征は行われ、ピョートルもまたこれに参加し、前年の遠征で確立されていたロシア海軍によって、海へのルートを手に入れたのです。そして、翌年にはヨーロッパへ250名ほどの大使節団を送ったピョートルでしたが、この時も一団員に成りすまして自由気ままな行動を取りました。

ピョートルはこの使節団において、船大工として働いたり、病院の視察や歯医者の治療見学、天文台訪問に貴族院本会議見学など、様々な体験をして自分のものにしていったのです。更に、多くの武器を購入し、千人もの軍事・技術の専門家を雇い、ロシアの強化に努めました。

1700年、スウェーデン帝国との大北方戦争が始まり、初めのうちはロシアの劣勢で推移します。しかし、1709年のポルタヴァの戦いでは敵軍を大敗させ、その後は一進一退の戦況で、最終的には1720年のグレンガム島沖の海戦で勝利します。

1721年9月10日、ロシアとスウェーデンがニスタット条約を締結し、大北方戦争は正式に終結しました。この大勝利によって、ピョートルには「皇帝(インペラトール)」の称号が贈られ、ロマノフ朝ロシアは「ロシア帝国」となったのです。

徳川家康は朝廷の制約にのり出した!禁中並公家諸法度の制定

天皇に仕える身の徳川家康(1543年1月31日~1616年6月1日)は、天皇を最高権威とする朝廷の制約にのり出しします。そしてあみ出されたのが、天皇と公家を規制する禁中並公家諸法度を制定するということでした。

1600年10月21日、関ヶ原の戦いを制した家康は、晴れて天下をその手中に入れました。こうして、朝廷に対しても強く意見を言えるようになった家康は、5年前から空席となっていた関白(天皇に代わって政治を行なう官職)に、九条兼孝(1553~1636年)を推し、就任させてしまいます。

1601年、関ヶ原の戦いの後処理を終えた家康は、清和源氏の源頼朝や足利尊氏が過去に開いた、武家政権としての幕府開設の準備に取り掛かります。それは、自らも清和源氏の流れであるという、系図の改姓を行なうものでした。

1603年3月24日、ついに家康は幕府開設の基礎と考えていた征夷代将軍に任命されます。これは、形の上では朝廷に仕えて政権を運営するもので、朝廷を牛耳る天皇や公家は、家康よりも上位にあるということなのです。

1605年、嫡男・秀忠(1579~1632年)に将軍職を譲った家康は、かつての主家である豊臣秀頼に、新将軍に会うよう要請します。これは、主従の逆転を意味するもので、当然のこと秀頼は応じようとはしませんでした。

1607年、将軍は辞したものの家康の権勢は大きく、駿府(現在の静岡市葵区辺り)に移り、「駿府の大御所」として実権を握っていました。これは、江戸にいる将軍・秀忠の運営する幕府を、制度的に固める大きな力となっていたのです。

1611年、家康は、九男・義直(よしなお、尾張徳川家祖)、十男・頼宣(よりのぶ、紀州徳川家祖)、十一男・頼房(よりふさ、水戸徳川家祖)の3人に、朝廷から官位を与えさせます。後の御三家を立ち上げて、将軍家維持の体制のための下地を作ったのです。

またこの年には、家康は、将軍と会うことを拒んでいた秀頼との会見に成功し、徳川家が豊臣家よりも上位であるという姿を天下に知らしめることができました。更に、関ヶ原の戦いで敵対した西国大名たちに三カ条の法令を突き付け、彼らから誓紙を取ることにも成功し、晴れて実質的な天下人となったのです。

1614~1615年に行われた大阪の陣において、懸案となっていた豊臣家を滅ぼした家康は、これで武家に対する問題をほぼ解決したこととなります。そして、家康の次の目標は、幕府よりも上位にある朝廷の規制となったのです。

家康は、臨済宗の僧・以心崇伝(いしんすうでん、1569~1633年)に命じて、「天皇の主務」・「太政大臣、左大臣、右大臣の座次」・「摂関の任免」・「武家官位」・「改元」・「僧正、門跡、院家の任命叙任」など、17条項に渡る法規制を起草させます。

1615年9月9日、家康は秀忠と前関白・二条昭実(1556~1619年)と連名で、禁中並公家諸法度を公布しました。これによって、仕える立場であるはずの江戸幕府が、天皇と公家を規制する法制度が、江戸時代の終りまで続けられることとなったのでした。

【サン・バルテルミの虐殺】カトリーヌ・ド・メディシスが招いた悲劇

サン・バルテルミの虐殺(1572年8月24日)は、キリスト教の宗派対立が生んだ凄惨な大量虐殺事件です。その発端は、フランス王シャルル9世(在位:1561~1574年)の母后カトリーヌ・ド・メディシス(1519年4月13日~1589年1月5日)の提案が招いた悲劇でした。

ドイツで始まったキリスト教の改革運動(宗教改革)は、他国へも影響を与えて広がりを見せていました。それはフランス王国でも例外ではなく、カトリックとプロテスタント(カトリック側の呼び名はユグノー)の宗派対立は、ユグノー戦争(1562~1598年)にまで発展していたのです。

1562年3月1日、フランス北東部のヴァシーというコミューン(地方自治体)で、カトリック側のリーダー的存在のギーズ公フランソワ・ド・ロレーヌ(1519~1563年)の兵士たちが、そこの市民とユグノーたちを殺害する事件を引き起こします。このヴァシーの虐殺が発端となって、ユグノー戦争は始まったのです。

1563年、フランソワが暗殺されると、ギーズ公はその長男アンリ1世に引き継がれます。彼は、父を暗殺したユグノーのコリニー提督に恨みを抱き、ずっと復讐の機会を待っていたのです。

カトリーヌは息子シャルル9世が10才そこそこで即位してから摂政となっていて、キリスト教の宗派対立の融和政策にあたっていました。その中で提案されたのが、ユグノー指導者のナバラ(イベリア半島北東部の王国)王アンリと娘マルグリット(シャルル9世の妹)の結婚です。

実はこのマルグリットは、あのカトリックのリーダー格ギーズ公アンリ1世と密かに恋愛していたのですが、母カトリーヌの怒りを買っていたのです。それが、対立するユグノーの指導者の下に嫁がされるという、悲しい憂き目に遭わされることになったのでした。

1572年8月17日、ナバラ王アンリとフランス王女マルグリットの結婚式が、パリのノートルダム聖堂で行われました。結婚式には、ユグノー指導者のコリニー提督を始め、多くのユグノーの貴族たちが参列したのです。

8月22日、コリニー提督がルーブル宮から宿泊先の宿に帰る時のこと、銃撃が彼を襲います。ユグノーたちがシャルル9世に事の真相を問いただしますが、翌日になって、王はユグノーの殺害を命じ、24日のサン・バルテルミの祝日になって、再びコリニー提督は襲われ、暗殺されてしまったのです。

暗殺者は、ずっと復讐の機会を狙っていたギーズ公アンリ1世の兵でした。この暗殺がきっかけとなって民衆の暴動が始り、ギーズ公の兵とカトリックの市民たちは、次々とユグノーの貴族と市民たちを虐殺していったのです。

サン・バルテルミの虐殺と呼ばれる暴動は、パリ市内だけに留まらず、地方へも広がっていき、最終的には1万を超える犠牲者が出ました。まさに、宗教対立政策として政略結婚を画策した、摂政カトリーヌの大失敗の選択の結果でした。

2年後シャルル9世が亡くなり、フランス王はその弟のアンリ3世(在位:1574~1589年)となります。これによって、ユグノー戦争はフランス王アンリ3世治世の下、カトリック勢のギーズ公アンリ1世と、ユグノー勢のナバラ王アンリが争う、混沌とした「三アンリの戦い」へと移っていきました。

copyright © life-to-reconsider.com