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歴史的転換点とは

歴史的転換点(Historical turning point)とは、歴史が大きく変わるターニングポイントとなる時期や出来事を指します。歴史年表で分類して記載される「時代区分」や「国家」の始まる時期と、その発端として起こる出来事のことです。

日本史の場合、時代区分は旧石器→縄文→弥生→古墳→飛鳥→奈良→平安→鎌倉→室町→安土桃山→江戸→明治→大正→昭和→平成と変遷していきます。細かく見れば、鎌倉と室町の間には建武の新政、室町時代の中に南北朝と戦国、江戸時代の終りに幕末、昭和の中に連合軍占領下もあるのです。

これらの時代区分が切り替わる時こそが歴史的転換点で、決定的な変革や戦いが行われています。都を移すという大変革で始まった奈良や平安時代、奥州合戦を経て全国統治を開始した鎌倉時代、桶狭間の戦いを経て政権を確立した安土桃山時代、関ヶ原の戦いを経て全国統治を開始した江戸時代などの事例です。

世界史の場合、各国や地域ごとに時代区分もありますが、国家そのものの盛衰が大きな転換点となっています。そして世界の国においても、その始まりや政権の交代の際には、歴史的転換点に繋がる変革や戦いがあったのです。

紀元前には、前8世紀頃に成立した古代ギリシア、前3100年頃~前30年の古代エジプト、前2450年頃~前609年頃のアッシリア、前1894年~前539年のバビロニア、前808年~前168年のマケドニア王国、前771年~前206年の秦、前753年~1453年の古代ローマ、前550年~651年のペルシア帝国などがあります。

紀元後には、395年~1453年の東ローマ帝国、1206年~1634年のモンゴル帝国、1299年~1922年のオスマン帝国、1526年~1858年のムガル帝国、1547年~1917年のロシア帝国、1616年~1912年の清、1871年~1918年のドイツ帝国、1915年~1916年の中華帝国、1922年~1991年のソビエト社会主義共和国連邦などがあります。

世界史における主な変革や戦いには、前431年~前404年のペロポネソス戦争、30年頃以降のキリスト教の成立、208年の赤壁の戦い、16世紀の宗教改革、18世紀のフランス革命、18世紀半ば~19世紀の産業革命、1861年~1865年の南北戦争、20世紀前半の二度の世界大戦、1953年~1959年のキューバ革命などがあります。

歴史に「もしあの時ああしなければ」ということは、学問としてはあまり意味はありません。しかし、大きな歴史の流れを変えた選択を自分の人生に当てはめてみた時に、仮に歴史上とは違う選択をした時の結果を試してみるのも、少しは意味があるのかもしれないのです。

例えば、織田信長が手勢の少なさを気にして、桶狭間の戦いを決行しないという選択をしていたら、その後の天下統一は無しえなかった可能性が高いのです。このような歴史的転換点での選択を自分の人生に当てはめて、「歴史のもし」を考えてみるのも非常に面白いものではないでしょうか。

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【イラン革命】パーレビ国王が推進した近代化・西欧化の末路

イラン革命(1977~1979年)は、イラン最後の王朝パーレビ朝・イラン帝国(1925~1979年)で起こった、民主主義とイスラム化を求める革命です。時の皇帝モハンマド・レザー・シャー(日本ではパーレビ国王、1919年10月26日~1980年7月27日)は、帝国の近代化と西欧化を推進しましたが、この革命で末路を迎えるのです。

1941年9月16日、初代パーレビ朝イラン皇帝・レザー・シャー(1878~1944年)は、息子モハンマドに譲位してモーリシャス島へと行ってしまいます。第二次世界大戦の最中に、中立国からナチス・ドイツ寄りとなったレザーに対し行われた、イギリスとソ連の連合軍によるイラン進駐から逃れるための亡命でした。

新皇帝モハンマドは、翌年1月になってイラン・イギリス・ソ連での三国間条約を結び、戦争での非軍事的援助の提供を行なうことにします。この条約には、休戦後6か月以内に連合軍はイランから撤退するとあったため、連合国側を信用はできないものの認めたものでした。

1943年9月、それまで中立を守っていたイランでしたが、ついにドイツに対して宣戦布告し、連合国としてどっぷりと大戦の渦中へと入って行きました。そして11月、首都テヘランにおいて、アメリカ大統領ルーズベルト・イギリス首相チャーチル・ソ連書記長スターリンによって会談が行われ、イランへの経済援助拡充が決まるのです。

1945年9月2日、第二次世界大戦が終わると、イギリス軍は条約に従って撤退するものの、ソ連軍は居座りを続け、イラン北西部にソ連の傀儡政権を樹立させるという有様でした。

1951年、首相のモハンマド・モサッデグ(1882~1967年)は石油国有化を推進してソ連との連携を志向します。この状況に、皇帝モハンマドは対立姿勢を取ったのです。

1953年、皇帝派の将軍ザーヘディー(1897~1963年)がクーデターを決行し、モサッデグ首相は失脚します。クーデターは、アメリカとイギリスの情報機関(CIAとMI6)の支援を受けたもので、パーレビ国王がソ連の影響を脱し、米英の西欧化へと軸足を向けているのが窺われます。

1960年代になると、皇帝は反体制運動の取り締まりを強化していき、秘密警察サヴァクを動かします。そして、経済の面においても政治的な安定を重視し、国民の政治参加を規制して独裁を肯定する、「開発独裁体制」を確立したのです。

1963年からはアメリカの経済援助を後ろ盾に、王命による「白色革命」として、土地改革・国営企業の民営化・労使間の利益分配・婦人参政権の確率・教育の振興・農村開発と、イスラムとも対立するような政策も含めた改革を推し進めたのです。

このようなパーレビ国王の独裁的改革は、イスラム教シーア派法学者たちを中心とした国民の反発を招き、デモやストライキで収拾の目途は立たなくなっていきました。そして、1979年1月16日に皇帝はエジプトへと亡命し、2月11日に反体制勢力の政権が誕生して「イラン革命」は成功するのです。

モハンマドの最期は、実に侘しいものでした。癌を治療するとしてアメリカに居た11月4日のこと、イランでは反発した学生たちによるアメリカ大使館人質事件が起き、モハンマドはアメリカを追われパナマへ、そしてエジプトで受け入れられるものの、翌年7月27日になって首都カイロで客死してしまいます。

【文化大革命】毛沢東が自らの思想であみ出した政策による大損害

文化大革命(1966年5月~1976年10月)は、毛沢東(もうたくとう、1893年12月26日~1976年9月9日)と林彪(りんぴょう、1907~1971年)及び四人組と呼ばれる人々が指導者となって行われました。この毛の思想からあみ出された政策は、中国に社会的騒乱を巻き起こし、大損害を与えました。

毛は、中国湖南省の村の地主の三男坊として生まれ、二人の兄が早くに亡くなったことから、実質長男として育てられました。一代で自力で成り上がった父は厳格な人で、毛は小さい頃から働かされ、勉強にも励まなければならないという生活だったのです。

彼の一回目の結婚は1907年、わずか14才で4つ年上の羅一秀(らいっしゅう、1889~1910年)を妻とします。しかし、彼女は赤痢に罹って、3年足らずで亡くなってしまいました。

その年の秋、村を後にした毛は高等小学校で、康有為(こうゆうい、1858~1927年)や梁啓超(りょうけいちょう、1873~1929年)などの、儒教・西欧思想・福沢諭吉・国家主義などの思想を学びます。

1911年の春、毛は更に勉学を続けるため中学への入学を目指していました。しかし、時の王朝・清(しん)打倒を目指す辛亥(しんがい)革命が起こり、毛は革命のための志願兵となります。

1912年2月12日に辛亥革命が成功し清が滅亡すると、毛は念願の中学に入学します。この時、「人間到る処青山あり(大望成就のためには何処でも活躍すべき)」という、日本の明治維新にも大きな影響を与えた僧・月性(げっしょう、1818~1858年)の詩「将東遊題壁」を父に送って、自分の意気込みを表わしました。

その後も毛の勉学は続き、アダム・スミス(イギリスの経済学者)やモンテスキュー(フランスの哲学者)などの著作から思想形成をしていくのです。そして1918年4月には、儒教批判・人道主義・文字改革・文学改革を主張とする新文化運動に触発されて、学生仲間と「新民学会」を創設、政治の世界へと入って行くのでした。

1920年、父の遺産で裕福で市販学校の校長でもある毛は、共産党の事務をしていた楊開慧(ようかいけい、1901~1930年)を結婚します。しかし、この二番目の妻は、共産党と争っている国民党軍によって殺されてしまうのです。

1921年7月23日、毛は共産党の第1回党大会に出席します。そして1923年6月の第3回党大会では中央執行委員会の委員となり、9月には湖南支部を組織するまでになりました。

毛の共産党と中国での出世は続き、1945年6月19日には初代の中国共産党・中央委員会主席に就任します。そして、1949年10月1日には、「中華人民共和国」の建国を宣言するのです。

この国の当初の目標は、新民主主義社会の建設でした。しかし1952年9月24日、突然に毛はソ連をモデルとした社会主義へと大きく舵を切って、他の指導者たちを困惑させてしまうのです。

1966年5月16日、北京大学で指導部を批判する壁新聞が張り出されたことによって、文化大革命は始まります。この時、国家主席の座を劉少奇(しゅうしょうき、1898~1969年)に奪われていた毛は、これを利用して反撃に出ました。

腹心の党副主席・林彪と四人組で指導体制を組んで、封建的文化・資本主義文化の批判と、新たな社会主義文化の創生を目指し、各地で民衆による教会・寺院の破壊や大量殺戮を助長したのです。

毛は、「道は自分で切り開くもの」と考えていたと言われますが、文化大革命での行動を見る限りではあまりそうは見えません。どこか、道の切り開き方に間違いがあったのではないでしょうか。

トルーマンは人類最悪の選択をした!日本への原子爆弾投下の顚末

アメリカの第33代大統領ハリー・S・トルーマン(1884年5月8日~1972年12月26日)は、人類史上最悪の選択をした人物と言えます。それは、日本への原子爆弾投下の決定で、史上初で最後(であって欲しい)の核兵器を実戦で使用させ、広島と長崎で12万9千から24万6千もの被害者を出したのです。

日本への原子爆弾投下の理由として、アメリカ政府の正式見解では、第二次世界大戦太平洋戦線における日本本土での戦闘を望まず、これを早くに終結させるためだったとしています。しかし、実際には沖縄戦を決行した上に、広島と長崎に落とした原爆の種類が違うことから実験を兼ねていたとも疑われるのです。

1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻によって、第二次世界大戦が始ります。

この年、アメリカに亡命してきたユダヤ人物理学者レオ・シラードたちが、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(1882~1945年)に信書を送ります。これは、ナチス・ドイツが核兵器を持つのではないかと憂慮して、アメリカでの核兵器開発を促すものでした。

1941年7月、ウラン型原爆の基本原理などがまとめられ、爆撃機に搭載できるとわかります。これを知ったルーズベルトは、10月になって原爆開発を決意したのです。

1942年10月、原子爆弾開発・製造のための「マンハッタン計画」が具体的に始動し、日本の悲劇に向かって進みだしました。

1943年4月、原爆開発のためにロスアラモス研究所が創設され、ユダヤ系物理学者ロバート・オッペンハイマー(1904~1967年)が開発責任者となります。

1944年9月18日、ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチル(1874~1965年)がニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原子爆弾投下などで合意を見ます。

1945年1月20日、ルーズベルト大統領第4期目にあたり、トルーマンが副大統領に就任します。2月にはサイパン島から8キロほど離れたテニアン島が原爆投下基地とされました。

4月12日、脳卒中で突然にルーズベルトが亡くなったことによって、トルーマンに大統領の座が回ってきます。4月30日、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(1889~1945年)が自殺し、翌月7日にはドイツの無条件降伏文書が調印されます。

5月18日、大統領職を引き継いだトルーマンは、日本への原爆投下路線を止めることなく、部隊をテニアン島へ移動させます。5月28日になると、初めに原爆開発を進言したシラードが、一転して原爆使用に反対を表明します。

7月16日、人類初の核実験「トリニティ実験」がプルトニウム型原爆で成功し、翌日シラードは大統領へ原爆使用反対の請願書を提出するのでした。

7月21日に実験成功の報を受けたトルーマンは、その残虐性を良く理解はしましたが、使用することの正当性についての思いは変わりませんでした。そして、人類史上最悪の選択、日本への原爆投下を指示したのです。

8月6日午前8時15分、広島にウラン型原子爆弾「リトルボーイ」が投下されます。構造が簡単で実験を必要としなかったこの爆弾による死者は、広島の推定人口35万人に対し、2~4ヶ月以内でその3~5割ほどに達しました。

8月9日午前11時2分、長崎にプルトリウム型原子爆弾「ファットマン」が投下されます。トリニティ実験で成功していたこの爆弾による死者は、長崎の推定人口24万人に対し、およそ3割に達しました。

トルーマン大統領の、人類史上最悪の選択の結果生まれた悲劇です。

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