歴史上の人物の選択から自分の人生を考え直す

始皇帝は少年時代に観察力を鍛えた!そのことが中国統一に繋がる

始皇帝(しこうてい、前259年~前210年9月10日)は、少年時代に敵地で死を逃れて潜伏するという経験から、非常に高い観察力を鍛えました。その経験が、中国史上初めての全土統一という快挙に繋がることとなったのです。

前259年の中国は、140年以上も「戦国時代」の真っただ中にありました。この時代の主要7ヶ国「戦国七雄」は、秦(しん、前778~前206年)・楚(そ、?~前223年)・斉(せい、前386~前221年)・燕(えん、前1100頃~前222年)・韓(かん、前403~前230年)・魏(ぎ、前403~前225年)・趙(ちょう、前403~前228年)です。

そんな時期、後の始皇帝である政(せい)は、後に秦の第30代君主・荘襄(そうじょう)王となる子楚(しそ)が人質となっていた趙で生まれました。子楚には20人を超える兄弟がいたうえ、正式な妃を母としていなかったため、ほとんど秦の君主となる可能性はなく、その子である政の立場も非常に危ういものだったのです。

前253年のこと、秦の昭襄(しょうじょう)王が趙との休戦協定を反故にして、人質になっている子楚や政の身の安全のことはまったく意に介せず、趙の首府・邯鄲(かんたん)を攻めます。すると、子楚は自身の処刑を免れるため、妻子を置いて逃げ出してしまったのでした。

残されたわずか6才の政は、母・趙姫(ちょうき)と共に逃亡します。この幼いころの命を賭けた潜伏生活の中で、政の研ぎ澄まされた観察力は磨きをかけていくこととなるのでした。

前250年、昭襄王が亡くなり、1年後に孝文(こうぶん)王が即位すると、子楚が太子となります。これによって、趙ではどうにか生き延びていた政と趙姫を、身分の安定した子楚のいる秦の首都・咸陽(かんよう)へと送り返しました。

この後政を取り巻く状況は、目まぐるしく動きます。孝文王は即位後わずか3日で亡くなり、父が荘襄(そうじょう)王として即位するものの、これまたわずか3年で亡くなってしまうのです。

結局、生まれた時にはほとんどありえなかった王位が、わずか13才の政の下に転がり込んできたのです。前247年、秦王となった政の快進撃は、ここから始まりました。

前241年、趙が楚・魏・韓・燕の諸国と連合して秦を攻めてきますが、なんなくこれを返り討ちとします。そして、前238年には、商人から成りあがって実権を握っていた呂不韋(りょふい)がなくなり、晴れて政の実質的な政権が確立します。

前230年、10万の秦軍に首都を落とされた韓が滅亡します。韓王・安は捕らえられ、4年後に処刑されました。

前228年、秦軍に首府を落とされた趙は事実上の滅亡を迎えます。韓王は一旦は逃亡するものの、後に捕らえられ流刑となりました。

前225年、政によって派遣された将軍・王賁(おうほん)によって、魏が滅亡します。魏の都に河の水を入れるという戦法で、陥落までに3ヶ月を要した戦いでした。

前223年、秦の将軍・王翦(おうせん)軍60万が、すでに衰退にむかっていた楚を攻め滅ぼします。そして翌年には、この王翦が燕の攻略にも成功し、燕は終焉を迎えるのでした。

前221年、今度は王賁が斉を攻略し、秦以外の「戦国七雄」の排除を完成させます。ここに中国は歴史上初めて統一され、政は皇帝として「始皇帝」を名乗り、封建体制を敷いていきました。