歴史上の人物の選択から自分の人生を考え直す

徳川家康は朝廷の制約にのり出した!禁中並公家諸法度の制定

天皇に仕える身の徳川家康(1543年1月31日~1616年6月1日)は、天皇を最高権威とする朝廷の制約にのり出しします。そしてあみ出されたのが、天皇と公家を規制する禁中並公家諸法度を制定するということでした。

1600年10月21日、関ヶ原の戦いを制した家康は、晴れて天下をその手中に入れました。こうして、朝廷に対しても強く意見を言えるようになった家康は、5年前から空席となっていた関白(天皇に代わって政治を行なう官職)に、九条兼孝(1553~1636年)を推し、就任させてしまいます。

1601年、関ヶ原の戦いの後処理を終えた家康は、清和源氏の源頼朝や足利尊氏が過去に開いた、武家政権としての幕府開設の準備に取り掛かります。それは、自らも清和源氏の流れであるという、系図の改姓を行なうものでした。

1603年3月24日、ついに家康は幕府開設の基礎と考えていた征夷代将軍に任命されます。これは、形の上では朝廷に仕えて政権を運営するもので、朝廷を牛耳る天皇や公家は、家康よりも上位にあるということなのです。

1605年、嫡男・秀忠(1579~1632年)に将軍職を譲った家康は、かつての主家である豊臣秀頼に、新将軍に会うよう要請します。これは、主従の逆転を意味するもので、当然のこと秀頼は応じようとはしませんでした。

1607年、将軍は辞したものの家康の権勢は大きく、駿府(現在の静岡市葵区辺り)に移り、「駿府の大御所」として実権を握っていました。これは、江戸にいる将軍・秀忠の運営する幕府を、制度的に固める大きな力となっていたのです。

1611年、家康は、九男・義直(よしなお、尾張徳川家祖)、十男・頼宣(よりのぶ、紀州徳川家祖)、十一男・頼房(よりふさ、水戸徳川家祖)の3人に、朝廷から官位を与えさせます。後の御三家を立ち上げて、将軍家維持の体制のための下地を作ったのです。

またこの年には、家康は、将軍と会うことを拒んでいた秀頼との会見に成功し、徳川家が豊臣家よりも上位であるという姿を天下に知らしめることができました。更に、関ヶ原の戦いで敵対した西国大名たちに三カ条の法令を突き付け、彼らから誓紙を取ることにも成功し、晴れて実質的な天下人となったのです。

1614~1615年に行われた大阪の陣において、懸案となっていた豊臣家を滅ぼした家康は、これで武家に対する問題をほぼ解決したこととなります。そして、家康の次の目標は、幕府よりも上位にある朝廷の規制となったのです。

家康は、臨済宗の僧・以心崇伝(いしんすうでん、1569~1633年)に命じて、「天皇の主務」・「太政大臣、左大臣、右大臣の座次」・「摂関の任免」・「武家官位」・「改元」・「僧正、門跡、院家の任命叙任」など、17条項に渡る法規制を起草させます。

1615年9月9日、家康は秀忠と前関白・二条昭実(1556~1619年)と連名で、禁中並公家諸法度を公布しました。これによって、仕える立場であるはずの江戸幕府が、天皇と公家を規制する法制度が、江戸時代の終りまで続けられることとなったのでした。