歴史上の人物の選択から自分の人生を考え直す

ピョートル1世は数々の手仕事を身に付けロシア帝国を成立させた!?

全ロシアのツァーリ(君主)で大帝とも呼ばれたピョートル1世(1672年6月9日~1725年2月8日)は、船大工や花火師など数々の手仕事を身に付け、自分は外科医や歯医者だと思っているとても手先の器用な皇帝でした。そして、革新的で西欧かぶれとも言えるピョートルだからこそ、ロシア帝国を成立させたのかもしれません。

1672年6月9日、全ロシアのツァーリのアレクセイ・ミハイロヴィチ(1629~1676年)の下に、一人の男の子が生まれました。後に、ロシア・ツァーリ国を帝国にまで成長させるピョートルの誕生です。

1676年2月8日、アレクセイが亡くなり、ピョートルの異母兄がフョードル3世(1661~1682年)として即位します。しかし、フョードルの治世はわずか6年、オスマン帝国(1299~1922年)との露土戦争(1676~1681年)などがあり、あまり成果もなく病没したのです。

1682年5月7日、ピョートルはもう一人の異母兄イヴァン(1666~1696年)を差し置いて、母ナタリア出身のナルイシキン家によってわずか10才でツァーリに祭り上げられます。これは、病弱で障害を持つイヴァンとその姉ソフィアの母出身のミロスラフスキー家に対抗したものでした。

ピョートルが即位してすぐに、ミロスラフスキー家の反撃が始ります。イヴァンの母方ではストレリツィの蜂起を煽り、王宮クレムリンを襲撃して、ナルイシキン家の有力者を殺害してしまいました。

これによって、異母兄がイヴァン5世として即位し、その姉ソフィアが摂政としてロシアの実権を握るのです。ピョートルはツァーリの座を追われ、共同統治者となるものの、王宮を出てモスクワ郊外へと移されたのでした。

それでもピョートルは、楽天的性格なのか特段めげることはありません。なんと、ピョートルは近くの外国人村に入りびたり外国人と仲良くなったり、遊びの軍隊を作って模擬的な戦争をしたりしていたのです。

1689年、ソフィアが失脚し流罪となると、ピョートルは政治をナルイシキン家に任せます。そして、自身は相変わらず仲間たちと遊びまわっていたのです。

1694年には母ナタリヤが、1696年にはイヴァン5世が相次いで亡くなり、ようやくピョートルの親政が始められます。しかし、まだまだ”現場”での活躍が楽しいのか、1695年に行われたドン川畔のアゾフへの遠征では、ピョートルは一砲兵下士官として参加しました。

1696年にもアゾフ遠征は行われ、ピョートルもまたこれに参加し、前年の遠征で確立されていたロシア海軍によって、海へのルートを手に入れたのです。そして、翌年にはヨーロッパへ250名ほどの大使節団を送ったピョートルでしたが、この時も一団員に成りすまして自由気ままな行動を取りました。

ピョートルはこの使節団において、船大工として働いたり、病院の視察や歯医者の治療見学、天文台訪問に貴族院本会議見学など、様々な体験をして自分のものにしていったのです。更に、多くの武器を購入し、千人もの軍事・技術の専門家を雇い、ロシアの強化に努めました。

1700年、スウェーデン帝国との大北方戦争が始まり、初めのうちはロシアの劣勢で推移します。しかし、1709年のポルタヴァの戦いでは敵軍を大敗させ、その後は一進一退の戦況で、最終的には1720年のグレンガム島沖の海戦で勝利します。

1721年9月10日、ロシアとスウェーデンがニスタット条約を締結し、大北方戦争は正式に終結しました。この大勝利によって、ピョートルには「皇帝(インペラトール)」の称号が贈られ、ロマノフ朝ロシアは「ロシア帝国」となったのです。