「平将門の乱」は平安時代の中ごろに起きた、承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)のひとつです。平将門(たいらのまさかど)はもうひとつの天皇とも言える「新皇」となって、東国の関東諸国を独立させるために、朝敵となりながらも戦いました。

898年、桓武(桓武)天皇の孫(或いは曾孫)・平高望(たいらのたかもち)は、息子の国香(くにか)・良兼(よしかね)・良将(よしまさ)を連れて、上総国(現在の千葉県中部)へ実質的長官である上総介(かずさのすけ)として、赴任して行きました。そして、任期満了後もその地に土着し、関東での平氏勢力の拡大に努めたのです。

国香と良兼は、常陸国(ほぼ現在の茨城県)の前の常陸大掾(ひたちだいじょう、三等官)・源護(みなもとのまもる)の娘らを、良将は県犬養春枝(あがたのいぬかいのはるえ)の娘を妻としました。このあたりから、国香・良兼派と良将派の諍いの芽が見え隠れしているようです。

下総国(しもうさのくに、現在の千葉・茨城・埼玉・東京に跨る地域)佐倉を領地とする良将が亡くなると、その息子・将門の苦難が始ります。なんと、伯父の国香と良兼らが、勝手に佐倉を分割して取り上げてしまったため、親族間の争いへと発展していったのです。

また、源護との争いも勃発し、上総・下総・常陸の関東諸国には、きな臭い争乱の嵐が吹き荒れ始めました。

935年、源護の長男・扶(たすく)が、弟の隆(たかし)や繁(しげる)と共に、将門を襲撃します。しかし、これを返り討ちにした将門は、その勢いをかって護の本拠地を逆襲し、そこにいた国香を焼死させてしまうのでした。

936年、一族の長となった良兼は、国香の嫡男・貞盛と共に軍を募り、上総国から将門攻撃に出発します。ところが、将門はこの軍に奇襲をかけ、下野国(しもつけのくに、現在の栃木県)の国衙(こくが、役所)まで追い詰めました。

ここで一気に国衙を攻め落とすこともできたのでしょうが、将門はあえて良兼に逃げ道を開けて、国衙との交渉によって自分の反撃が正しいことを認めさせるのでした。彼のこの選択は正しく、朝敵になることを避けられたのです。

937年、再び良兼が軍を編成して将門に攻撃を仕掛けてきます。良兼軍は将門の豊田領を荒らし回り、妻子までも捕らえてしまいますが、最後には将門の反撃に遭い、筑波山へと敗走し、勢力はその後衰退を辿り、二年後に良兼は病気で亡くなります。

940年、武蔵国(現在の東京・埼玉・神奈川の一部)に赴任した興世王(おきよおう)が国守との不和から将門を頼るようになり、常陸国で問題を起こした藤原玄明(ふじわらのはるあき)も身を寄せるようになります。そして、ついに常陸国府と将門の対立は頂点に達し、争乱に発展することとなったのです。

将門軍千人余りが国府軍三千を破った戦いによって、将門は完全に朝敵となってしまいます。情勢の流れのままに将門の選択は行われ、天皇と同じ立場として「新皇」を名乗り、関東全体を治めるため、岩井(現在の茨城県坂東市)に政庁を開設しました。

こうした中、雲隠れしていた貞盛が藤原秀郷(ふじわらのひでさと)と組んで、四千人の連合軍を編成していました。将門軍は五千に達していた兵らを返していたため、この時には千人ほどに縮小されています。

因縁の大決戦は、最初の内は矢の勢いが追い風に乗って、将門軍優勢に進みます。しかし、将門軍が一旦自陣へ引き返そうとした時、風向きが急に変わり、その勢いを駆った貞盛軍の攻撃で、将門はあえなく討ち取られてしまうのでした。