歴史上の人物の選択から自分の人生を考え直す

【近江屋事件】討幕と維新を推し進めた幕末の志士・坂本龍馬の最期

「近江屋事件」とは、江戸時代の終末期に討幕と維新を推し進めた、”幕末の志士”坂本龍馬(1836年1月3日~1867年12月10日)の最期となった暗殺事件です。彼が、醤油屋「近江屋」は危険だとの助言を退け宿泊先として選択したのが、この被災の原因でした。

この事件では同郷の中岡慎太郎(1838~1867年)と元力士の山田藤吉(1848~1867年)も襲われ、難の二日以内に亡くなっています。暗殺者については確定されておらず、幕末の歴史では”超”の付く人気組織・新撰組というものもあれば、京都見廻組(幕臣による京都治安維持組織)という説も出ています。

1862年5月21日、京都の伏見の旅館・寺田屋において、討幕を目指す薩摩藩(現在の鹿児島と宮崎の南西部)の尊皇派志士たちを、藩主の父・島津久光が鎮圧させた戦闘で、「寺田屋事件」や「寺田屋騒動」と呼ばれています。

1866年3月9日にも、再び「寺田屋事件」が発生します。これはまた「寺田屋遭難」とも呼ばれ、龍馬が伏見奉行(町政・司法・行政など)によって暗殺されかけた襲撃です。

10月20日には、土佐藩(現在の高知県)の藩士8名が、三条大橋西詰に掲げられた「長州藩(現在の山口県東南と西部)朝敵(天皇・朝廷の敵)」との制札(触書き)を引き抜こうとして、新撰組によって襲撃・捕縛されてしまいます。「三条制札事件」と呼ばれる、幕府の権威失墜を表す出来事のひとつです。

二つに「寺田屋事件」が起こった寺田屋は、薩摩藩の定宿として幕府のブラックリストに載っていたのです。維新を推進するためここに宿泊していた龍馬は、自身の身にも危険を感じて、活動の拠点を三条河原町に近い材木商「鮓屋(すしや)」に移します。

更に1867年11月頃になると、龍馬は醤油屋「近江屋」を経営する豪家・井口新助から、宿泊先として母屋の二階を提供されます。このことについて、薩摩藩士で改革派の吉井友実(1828~1891年)は、近江屋の辺りはまだ危険なので、薩摩藩邸に入った方が良いと勧めます。

しかし龍馬は、土佐藩を脱藩して日本の維新を目指していたため、個別の一藩に寄り添うことはできないと考えたのでしょう。龍馬は、頑として吉井の助言を聞くことはありませんでした。

そして、近江屋事件は起こります。

1867年12月10日、夕方になって中岡が近江屋に龍馬を訪ねてきました。彼は、龍馬と三条制札事件について話し合うためにやって来たのです。

二人の会合が夜にまで及んだ頃のこと、十津川郷士を名乗る面会者が訪ねてきます。居合わせた元力士の山田藤吉が面会者を伴って二階の龍馬の部屋へ向かいますが、彼は背後から面会者たちによって切り付けられ、翌日には命を落としてしまうのです。

二階で会合中の龍馬は階下の騒ぎに対して、思わず土佐弁で「ほたえな(騒ぐな)!」と叫んでしまいます。この声で龍馬の居場所を知った面会者たちは、注意深く音を立てないようにして二階へ上り、龍馬たちの会合する部屋へと侵入してしまったのです。

この時中岡は、切られるものの辛うじて息があり、助けを求めて2日は生き延びます。一方、襲撃の一番の目標であったと思われる龍馬は、後頭部・背中・額と深手を負い、ほとんど即死だったと言います。

生前の龍馬の活動によって、討幕と明治維新は達成できたものの、この早すぎる死(享年31)が無ければ、もう少し温和な形での維新ができていたかもしれません。彼の近江屋を宿泊先にするという選択は、新しい日本を立ち上げる上では、非常に悔やまれるものと言えるのです。