歴史上の人物の選択から自分の人生を考え直す

【イラン革命】パーレビ国王が推進した近代化・西欧化の末路

イラン革命(1977~1979年)は、イラン最後の王朝パーレビ朝・イラン帝国(1925~1979年)で起こった、民主主義とイスラム化を求める革命です。時の皇帝モハンマド・レザー・シャー(日本ではパーレビ国王、1919年10月26日~1980年7月27日)は、帝国の近代化と西欧化を推進しましたが、この革命で末路を迎えるのです。

1941年9月16日、初代パーレビ朝イラン皇帝・レザー・シャー(1878~1944年)は、息子モハンマドに譲位してモーリシャス島へと行ってしまいます。第二次世界大戦の最中に、中立国からナチス・ドイツ寄りとなったレザーに対し行われた、イギリスとソ連の連合軍によるイラン進駐から逃れるための亡命でした。

新皇帝モハンマドは、翌年1月になってイラン・イギリス・ソ連での三国間条約を結び、戦争での非軍事的援助の提供を行なうことにします。この条約には、休戦後6か月以内に連合軍はイランから撤退するとあったため、連合国側を信用はできないものの認めたものでした。

1943年9月、それまで中立を守っていたイランでしたが、ついにドイツに対して宣戦布告し、連合国としてどっぷりと大戦の渦中へと入って行きました。そして11月、首都テヘランにおいて、アメリカ大統領ルーズベルト・イギリス首相チャーチル・ソ連書記長スターリンによって会談が行われ、イランへの経済援助拡充が決まるのです。

1945年9月2日、第二次世界大戦が終わると、イギリス軍は条約に従って撤退するものの、ソ連軍は居座りを続け、イラン北西部にソ連の傀儡政権を樹立させるという有様でした。

1951年、首相のモハンマド・モサッデグ(1882~1967年)は石油国有化を推進してソ連との連携を志向します。この状況に、皇帝モハンマドは対立姿勢を取ったのです。

1953年、皇帝派の将軍ザーヘディー(1897~1963年)がクーデターを決行し、モサッデグ首相は失脚します。クーデターは、アメリカとイギリスの情報機関(CIAとMI6)の支援を受けたもので、パーレビ国王がソ連の影響を脱し、米英の西欧化へと軸足を向けているのが窺われます。

1960年代になると、皇帝は反体制運動の取り締まりを強化していき、秘密警察サヴァクを動かします。そして、経済の面においても政治的な安定を重視し、国民の政治参加を規制して独裁を肯定する、「開発独裁体制」を確立したのです。

1963年からはアメリカの経済援助を後ろ盾に、王命による「白色革命」として、土地改革・国営企業の民営化・労使間の利益分配・婦人参政権の確率・教育の振興・農村開発と、イスラムとも対立するような政策も含めた改革を推し進めたのです。

このようなパーレビ国王の独裁的改革は、イスラム教シーア派法学者たちを中心とした国民の反発を招き、デモやストライキで収拾の目途は立たなくなっていきました。そして、1979年1月16日に皇帝はエジプトへと亡命し、2月11日に反体制勢力の政権が誕生して「イラン革命」は成功するのです。

モハンマドの最期は、実に侘しいものでした。癌を治療するとしてアメリカに居た11月4日のこと、イランでは反発した学生たちによるアメリカ大使館人質事件が起き、モハンマドはアメリカを追われパナマへ、そしてエジプトで受け入れられるものの、翌年7月27日になって首都カイロで客死してしまいます。