歴史上の人物の選択から自分の人生を考え直す

ナポレオンのナショナリズムはフランス帝国の成立と滅亡を招いた!

ナポレオン・ボナパルト(1769年8月15日~1821年5月5日)がフランス国民の心中に燃え上がらせたナショナリズム(国民主義)は、フランス帝国(1804~1814年)という軍事独裁国家を成立させました。しかし、非人道的なナポレオンの政権は、このナショナリズムの反感を買い、最後には滅亡を招いてしまうのです。

ナポレオンというと、芯からのフランス人でフランスを偉大な帝国にした英雄というイメージが大きいようです。ところが、彼の生れはイタリア半島の西方の海に浮かぶコルシカ島で、先祖はイタリア貴族で、元々の洗礼名はイタリア風にナブリオーネ・ブオナパルテでした。

彼が生まれる40年も前からコルシカ独立闘争が行われていて、父カルロはその指導者パスカル・パオリ(1725~1807年)の副官を務めていました。パオリはコルシカ民族主義によって闘争を続けていたのですが、カルロはナブリオーネが生まれる直前になって、フランスに寝返ってしまうのです。

1789年、フランス革命が勃発した時、ナブリオーネはフランスにいたものの、コルシカ民族主義者としてまったく革命に関心はありませんでした。これが1792年のこと、コルシカ独立闘争でフランス寄りとなったブオナバルテ家の、コルシカ島からの追放ということで一変するのです。

ブオナバルテ一家はフランスのマルセイユに逃げて、1794年頃には家名をフランス風にボナパルトと改めました。この時から、ブオナバルテもフランス風にボナパルトとなったにでした。

ナポレオンは、フランス軍人として生きていく決意をします。これと前後して1793年に起ったトゥーロン攻囲戦で、ナポレオンは革命側の共和派を勝利に導き、その名をフランス中に轟かせました。

1795年に王党派によるヴァンデミエールの反乱においては、副官に任命されたナポレオンは一般市民をも危険にさらす散弾を市街地で使い、その鎮圧に成功しています。この頃フランスでは、他国からの干渉で、1792年から始まったフランス革命戦争で、ヨーロッパ各国を巻き込む状況となっていました。

当初は国内での反乱などの混乱もあって、戦況が思わしくないフランスでした。しかし、革命を成功させたフランス国民の熱意は強く、積極的な戦争への参加によって、しだいに戦況を好転させていったのです。

フランス国民のナショナリズムによる機運の盛り上がりで、ナポレオン軍は最初に干渉してきたオーストリア軍に勝ち続けます。そして、1794年4月には首都ウィーンに肉迫、政府に無断で講和交渉を行なって、ついに10月には条約を締結し、フランスに対抗する対仏大同盟を解体させました。

1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに遠征で首都カイロに入るものの、海上ではフランスがイギリスに敗れてしまい、ナポレオン軍は孤立してしまいます。12月、追い打ちをかけるように、イギリスが主導して再び対仏大同盟が復活し、フランス本国に危機が訪れます。

年が明けて、ナポレオンは自国の危機を救うため、エジプトの自軍はそのままに、僅かな側近と共にフランスへと向かいます。帰国したナポレオンはフランス国民から歓喜で迎えられ、11月にはクーデターによって政府の実権を握りました。

その後のナポレオンの勢いは留まる所を知らず、1804年5月18日には皇帝に即位し、フランス帝国を成立させます。しかし、戦いを続けるナポレオンのフランスが敗戦を重ねていくに従って、国民の指示は離れていき、1814年4月4日帝国はナポレオンの退位によって滅亡したのです。