歴史上の人物の選択から自分の人生を考え直す

カール大帝は神を信じ平和を望んでフランク王国を最盛させた!

カール大帝は、神を信じて平和を望む人物でした。彼のこの姿勢が、フランク王国(現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリア及びスロベニア)の最盛期を現出させたのでした。

741年10月22日、西ヨーロッパへのイスラム教徒の侵入を食い止めた英雄カール・マルテルが亡くなりました。彼はメロビング朝(481~751年)フランク王国(481~987年)の宮宰(きゅうさい、宮廷職の首位)でしたが、この死によってその権力はカールマンとピピンの兄弟に引き継がれたのです。

742年4月2日、ピピンに長男カールが生まれます。出生地はエルスタル(現在のベルギーの自治体)というのが有力ですが、あまりはっきりとはしていません。

751年6月28日、カールの弟カールマンが生まれます。後に成人した二人の男子でフランク王国(481~987年)を分割相続することとなるのです。

この年、ピピンは主君キテデリク3世(在位:743~751年)を廃位し、ピピン3世(在位:751~768年)としてカロリング朝(751~840年)を開きます。これはフランク族の貴族たちから選出されての即位で、ソワソン(現在のフランスの都市)で王権を認める塗油が行われました。

754年、ローマ教皇ステファヌス3世がサン=ドニ大聖堂(現在のフランスのパリ北側の郊外にあった教会)に塗油に訪れます。ピピン3世は息子たちにも塗油を希望し、これを果たします。

後にカールは、自分の務めが聖なるキリスト教会を作ることにあると発言しています。塗油によって王権の後継者であることを認められた彼は、その時から神を信じるようになっていったのでしょう。

また彼は、神を喜ばせるには平和が無くてはならないというようなことも言っています。この神を信じて平和を望むという姿勢が、彼の人生の中での数々の選択の時の判断材料となっていたことは、容易に想像できます。

768年9月28日、ピピン3世が亡くなると、カールはカール1世(在位:768~814年)、弟カールマンはカールマン1世(在位:768~771年)として、王国を2分して共同統治を始めます。しかし、二人の仲はあまり良好といえるものではなかったのでした。

771年12月4日、カールマン1世が亡くなると、身の危険を感じたのかその妻と幼子はランゴバルド王国(568~774年)へと亡命してしまいます。このことによって、カール1世はフランク王国全土を一人で統治することとなり、内憂を払拭した彼の外征と西ヨーロッパ世界の政治的統一が始まるのです。

772年、カール1世は、ザクセン人(現在の北ドイツ低地に形成された部族)とのザクセン戦争(772~804年)に突入します。

782年、キリスト教秩序を尊重しない者は死罪と定めた制定され、これに則ってかカール1世はザクセン人の捕虜4千5百人を虐殺的に処刑しました。

797年、この法律は改訂され、死刑が罰金刑となります。長引くザクセン戦争での敵方の懐柔政策に入ったものでしょう。

804年、ようやくザクセン人の完全征服が成り、現在のドイツの領域はほとんどフランク王国のものとなりました。

長期戦の終盤(800年12月25日)で戴冠を行なったカール1世は晴れて「大帝」となり、ザクセン戦争後はヨローッパのキリスト教文明を成立に大きな影響をもたらしたのです。カール大帝の神を信じて平和を望む姿勢による選択の結果が、フランク王国の最盛期を迎えた瞬間でした。