歴史上の人物の選択から自分の人生を考え直す

【文化大革命】毛沢東が自らの思想であみ出した政策による大損害

文化大革命(1966年5月~1976年10月)は、毛沢東(もうたくとう、1893年12月26日~1976年9月9日)と林彪(りんぴょう、1907~1971年)及び四人組と呼ばれる人々が指導者となって行われました。この毛の思想からあみ出された政策は、中国に社会的騒乱を巻き起こし、大損害を与えました。

毛は、中国湖南省の村の地主の三男坊として生まれ、二人の兄が早くに亡くなったことから、実質長男として育てられました。一代で自力で成り上がった父は厳格な人で、毛は小さい頃から働かされ、勉強にも励まなければならないという生活だったのです。

彼の一回目の結婚は1907年、わずか14才で4つ年上の羅一秀(らいっしゅう、1889~1910年)を妻とします。しかし、彼女は赤痢に罹って、3年足らずで亡くなってしまいました。

その年の秋、村を後にした毛は高等小学校で、康有為(こうゆうい、1858~1927年)や梁啓超(りょうけいちょう、1873~1929年)などの、儒教・西欧思想・福沢諭吉・国家主義などの思想を学びます。

1911年の春、毛は更に勉学を続けるため中学への入学を目指していました。しかし、時の王朝・清(しん)打倒を目指す辛亥(しんがい)革命が起こり、毛は革命のための志願兵となります。

1912年2月12日に辛亥革命が成功し清が滅亡すると、毛は念願の中学に入学します。この時、「人間到る処青山あり(大望成就のためには何処でも活躍すべき)」という、日本の明治維新にも大きな影響を与えた僧・月性(げっしょう、1818~1858年)の詩「将東遊題壁」を父に送って、自分の意気込みを表わしました。

その後も毛の勉学は続き、アダム・スミス(イギリスの経済学者)やモンテスキュー(フランスの哲学者)などの著作から思想形成をしていくのです。そして1918年4月には、儒教批判・人道主義・文字改革・文学改革を主張とする新文化運動に触発されて、学生仲間と「新民学会」を創設、政治の世界へと入って行くのでした。

1920年、父の遺産で裕福で市販学校の校長でもある毛は、共産党の事務をしていた楊開慧(ようかいけい、1901~1930年)を結婚します。しかし、この二番目の妻は、共産党と争っている国民党軍によって殺されてしまうのです。

1921年7月23日、毛は共産党の第1回党大会に出席します。そして1923年6月の第3回党大会では中央執行委員会の委員となり、9月には湖南支部を組織するまでになりました。

毛の共産党と中国での出世は続き、1945年6月19日には初代の中国共産党・中央委員会主席に就任します。そして、1949年10月1日には、「中華人民共和国」の建国を宣言するのです。

この国の当初の目標は、新民主主義社会の建設でした。しかし1952年9月24日、突然に毛はソ連をモデルとした社会主義へと大きく舵を切って、他の指導者たちを困惑させてしまうのです。

1966年5月16日、北京大学で指導部を批判する壁新聞が張り出されたことによって、文化大革命は始まります。この時、国家主席の座を劉少奇(しゅうしょうき、1898~1969年)に奪われていた毛は、これを利用して反撃に出ました。

腹心の党副主席・林彪と四人組で指導体制を組んで、封建的文化・資本主義文化の批判と、新たな社会主義文化の創生を目指し、各地で民衆による教会・寺院の破壊や大量殺戮を助長したのです。

毛は、「道は自分で切り開くもの」と考えていたと言われますが、文化大革命での行動を見る限りではあまりそうは見えません。どこか、道の切り開き方に間違いがあったのではないでしょうか。